木島櫻谷 四季の金屏風

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木島櫻谷 四季の金屏風 - 京都画壇とともに-

■2021年9月11日〜10月24日
泉屋博古館

 

2013年、2017年に続く、泉屋博古館では3回目となる木島櫻谷特集。

動物画をテーマとした前回に対し、今回は巨大な屏風絵を中心に、櫻谷だけではなく、彼を取り巻いた京都画壇の先人たちにも敬意を払った取り合わせとなっています。

 

メインは「柳桜図」「燕子花図」「菊花図」「雪中梅花」、いずれも六曲一双の屏風絵4点。

縦180センチ、横360センチくらいの大きさ。

圧倒的スケール感があり、絵の前にたつと作品の世界に全身没入してしまうような錯覚を覚えます。

鑑賞者が4作品によって四方を囲まれるように展示されているので、展示室の中に別空間が現れたかような印象を得ました。

 

4点の屏風はいずれも泉屋博古館コレクションの基礎を築いた第15代住友吉左衛門友純(春翠)によって櫻谷に発注されたものです。

現在は天王寺公園慶沢園となっている、かつての住友家茶臼山邸を飾る屏風として作成されたのだそうです。

制作年は1917(大正6)年。

ただし連作の最後「雪中梅花」が完成したのは翌1918(大正7)年1月です。

櫻谷は40歳代になったばかり。

既に文展での受賞をはじめ数多の実績をあげていたわけですが、重鎮がひしめいていた当時の京都画壇の中で、あえて中堅ともいえる櫻谷に大作を依頼した住友家当主のセンスに驚きます。

 

そして、さらに驚くのはその画風。

中でも「燕子花図」と「雪中梅花」。

今尾景年に学んだ櫻谷のベースには円山・四条派の伝統があるわけですが、これらの作品でまず直観されるのは「琳派」です。

特に「燕子花図」は根津美術館にある光琳作をあからさまにオマージュした作品。

それも、櫻谷の得意技である写生の力でリアルさを出す方向では全く無く、逆に光琳の図像をさらに平板化して、完全に「デザイン」として仕上げてしまっています。

雪中梅花」でも大胆に図像を単純化しているですが、こちらでは細部の色彩濃淡を微妙に差配し、まるで木々が眼前に浮かび上がってくるような効果をあげています。

一見、他の、例えば動物を描いた櫻谷作品とはあまりにもかけ離れた画風のように見えるのですが、例えば代表作「寒月」(京都市美術館)にみられる写実を支える様式美の妙を思い出すと、この屏風ではデザイン性にかなり振り切ってはいるものの、紛れもなく櫻谷独自の美意識が反映されているともいえると思います。

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旧住友家茶臼山邸跡(現慶沢園)

なぜこの屏風ではこんなに様式性に偏重しているのか。

それは桃山以来続いてきた大画の伝統をも意識しつつ、発注者住友春翠の好みや、屏風が実際に使われる茶臼山邸の広大な規模に呼応したためなのでしょう。

小川治兵衛が仕上げたという庭園に面した広間を考えたとき、写生の技をいくら凝らしても、それがぼんやりとした花鳥画ではバランスがとれない。

大画面にある程度くっきりと像を主張する意匠の力強さを意識する必要があります。
どこで観られるのか。

その使い道を考えたとき、櫻谷の出した答えは琳派、だったのかもしれません。

 

他に応挙や呉春、森寛斎に幸野楳嶺、師匠今尾景年の作品が数点、時代順に展示され、櫻谷の画風に影響を与えたと思われる馴染みの先人たちがあわせて回顧されています。

規模はさほど大きくありませんが、泉屋博古館コレクションの厚みをあらためて認識させられる企画展でした。

 

sen-oku.or.jp

 

詩仙堂の小早川秋聲

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先日京都文化博物館で鑑賞した小早川秋聲展。

 

会場の一角で、秋聲の画業を紹介したBSフジ制作によるドキュメンタリー番組の映像が流されていました。

番組の中では、意外な場所に秋聲の絵が飾られていることが紹介されています。

濱登久の店内に作品が展示されていたことに驚きましたが、もっと意外だったのは詩仙堂を飾る三十六詩聖の板絵が小早川秋聲の手による模写だったというお話でした。

www.bunpaku.or.jp

 

板絵のオリジナルは、詩仙堂を造った石川丈山と親交があったという狩野探幽の作とされています。

そもそもここを詩仙堂と呼ぶ所以となった絵です。

考えてみれば江戸時代初期に描かれた探幽筆の板絵が、なんの維持保存措置も取られないまま、観光客がひっきりなしに訪れる詩仙堂の内部に直接飾られているはずがありません。

二条城などと同様、模写が飾られていて当然なのですが、それが秋聲の筆によるものだったとは全く知りませんでした。

ということで、紅葉混雑が始まる前に、秋聲作品確認のため、詩仙堂を訪問してみました。

 

「詩仙の間」東西南北、四方の壁上部に隙間なくずらりと中国の詩人たち36人一人一人を描いた小さな板絵が飾られています。

照明はなく、天井近くに懸けられているため外光が直接あたることもありません。

仄暗い中に詩聖たちの顔や装束が浮かんできます。

 

展覧会図録に記されている詳細な年譜によれば、小早川秋聲がこの模写を完成させたのは1962(昭和37)年、77歳のとき。

2年がかりで仕上げたのだそうです。

秋聲が亡くなるのは模写完成から12年後の1974(昭和49)年ですが、詩仙堂での仕事以降、主だった作品が残されることはほとんどなかったようです。

描かれてからまもなく60年。

公開中は戸が開け放たれ、外気に晒され続けている「詩仙の間」ですから、所々剥落が見えるなどこの模写自体にもやや傷みが確認できます。

しかし色彩には目立った汚れもなく特に装束の装飾性は豪華さすら感じられます。

36人それぞれ個性的で、様式性を誠実に守りながらも紋切り型にはめ込んだような適当な作画は一枚もありません。

よく見ると、目の下、涙袋を強調して描かれている人物が何人も見られます。

これは秋聲の人物表現においてよく見かける特徴で、独特の雰囲気が面相に与えられています。

 

この描画は果たして探幽の原画にもともとあったものなのか。

それとも秋聲が独自に施した線なのか。

この場では原画と比較することができないのでなんとも言えません。

しかし非常に細やかに示された詩聖たちの表情からは、狩野派とはちょっと違った印象が立ち上ってきます。

戦後は体調を崩し作品の数もかなり少なくなる秋聲ですが、板絵群には、小さいながらもとても格調高い画風がみられ、晩年までしっかりその技量を維持していたことが伝わってきます。

 

なぜすでに体調が万全ではなかった秋聲が詩仙堂の模写36枚に取り組んだのか。

秋聲展図録の年譜には1951(昭和26)年5月、雑誌『淡交』に「名席巡礼 詩仙堂の四畳半」という随筆を寄稿したことが記されています。

また模写を完成させた年の3月には石川丈山を描いた絵を詩仙堂に納めています。

石川丈山東本願寺渉成園の作庭に関わったと伝えられ、真宗大谷派ゆかりの人物。

大谷派の僧籍を持っていた秋聲には特に親しい存在だったのかもしれません。

全くの憶測ですが。

 

さて、詩聖の中で、一人、ほぼ後ろ向きに描かれ、面相が全く読み取れない人物がいます。

晩唐の大詩人、李商隠です。

これは石川丈山の意向だったのか、狩野探幽の好みが反映されたのか。

それとも李商隠については、面相を描くことが古くからのお約束事として禁じられていたのか。

わかりません。

 

単に適当な肖像図が見つからなかっただけなのかもしれませんが、頽廃の美まで宿している李商隠の詩風をむしろ隠すような地味すぎる描き方。

秋聲も装束の色味をグッと渋く抑えて模写しています。

色々想像してみたくなる面白い図像でした。

 

詩仙堂HPにある「詩仙の間」写真リンク画像】

https://kyoto-shisendo.net/wp-content/themes/066/img/about/about_img_01.png

www.bsfuji.tv

 

 

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