森村泰昌 ポラロイドとカーテンの「迷宮」

 

森村泰昌:ワタシの迷宮劇場

■2022年3月12日〜6月5日
京都市京セラ美術館 東山キューブ

 

まさにタイトル通り、「迷宮」と「劇場」から成り立っている展覧会です。

kyotocity-kyocera.museum

 

会場入り口付近に森村泰昌自身が鑑賞者に宛てたメッセージが掲載されています。

「M式写真回廊」と名付けられた展示空間について、森村はこんなふうに優しく語りかけています。

 

「これまで撮りためた823枚のセルフポートレート写真( 通称ポラロイド写真 )が並ぶ迷路を、知らない街の路地を散歩するように巡っていただきます。道順は指定されておりませんので、自由に歩き回ってみてください。」と。

 

しかし、この「アドバイス」が、次第にある種の「罠」であることに気がつくことになります。

 

 

本当に迷路、なのです。

夥しいポラロイドの小さい写真が、緩やかにカーブを描く同一色同一形態のカーテン状パーテーションに取り付けられています。

どの写真も被写体は当然に森村泰昌です。

ぐるぐるとカーテンづたいに歩いていると、次第に方向感覚が失われ、前に見た写真がまた現れてきたり、確か一度見たはずなのに、見ていないようにも見えてきます。

 

かなり迷路の中を彷徨ったにもかかわらず、全ての写真、800枚を超える作品を完全に鑑賞できたのかどうか。

その確信が持てなくなってしまい、結局、何度も何度も、小さい小さい、森村泰昌ポートレートを覗き込むことになります。

 

これって、結構、稀れな経験です。

だって、800枚を超える同一人物の写真を、いちどきに、延々と、まざまざと、目を凝らして見続けることになるのですから。

 

だんだん疲れてきた頃に、森村泰昌が仕組んだ「罠」に気が付くことになります。

鑑賞順路をあえて設定せず、ポラロイド写真だけで構成したその意味が。

 

このトラップに引っかかった自分を面白く笑うことができれば本展を存分に楽しんだ、ということができそうですが、それに失敗すると、「騙された」という感想に至ってしまう可能性があるかもしれません。

 

しかし、高い入場料をとっていることもありますから、そこは鑑賞者がしっかりモトを取れるように配慮もされています。

 

タイトルを構成するもう一つの要素、「劇場」です。

カーテンの中に設営された「声の劇場」。

「モリムラ」自作の朗読劇が上演されています(会場内事前予約制・26分かかります)。

ここには森村泰昌の肖像はおろか、写真すら一枚も登場しません。

照明と音響、そして視聴覚以外に訴えるもう一つの要素が導入されたモリムラ・ミュージアム・シアター。

けっこう作り込まれている作品で、「迷宮」に匹敵する、十分非日常的な体験を味わえると思います。

 

そしてもう一つの「劇場」、「夢と記憶の広場」と題された映像作品。

本展のために新たに制作された、森村泰昌のいわば最新作です。

延々と、説明不可能なヘンテコリンなアクションを交えながら、水平方向に移動していく「森村泰昌たち」。

見続けていると妙なトリップ気分が込み上げてきます。

カーテンの奥には、実際、森村が着用した衣装や小物が、隠されつつも、露わにされています(「衣装の隠れ家」と題されています)。

見てはいけないものを見てしまった、ような感覚に襲われました。

 

 

「夢と記憶の広場」と並行して、森村泰昌が「作品」に変化(へんげ)していくさまをとらえた映像が流されていました。

おそらく大阪のアトリエで撮影されたもの。

これがとても興味深い内容でした。

手際よくさまざまな化粧道具で自身の顔を変化させていく森村が最も手をかけていた箇所。

それは「眼」です。

なんども何度も、筆や顔料を取り替えながら、眉毛やまつ毛、その周辺の窪みに変身の技を加えていきます。

これは自らの顔をキャンバスにした、まさに、「絵画」です。

メーキャップとか、そういう次元を遥かに超えたテクニックであって、例えるなら、「モリムラ式スフマート」とでもいえるくらい。

 

www.youtube.com

 

先日まで開催されていたKYOTOGRAOHIEの「ギイ・ブルダン展」では、ブルダンによる貴重なポラロイド写真が紹介されていました。

計算されつくされたカラー大判写真とは違う、写真家の生の眼、のような気配がありました。

森村泰昌のポラロイドにも、完成写真とは違う、妙に非現実的な生々しさがあります。

デジタル撮影に完全に移行した最近までポラロイドを使い続けていたという作家の中には、どこか、どこまでいっても完璧に画素分解はできないポラロイドの持つザラっとしたアナログ性を信じていたところがあるようにも感じられました。

 

それと、かつて観た大型写真作品の、その元となったイメージを、いわば「下絵」ともいうべきポラロイド画面で見ることによって、あらためて想起させられる愉しみもあると思います。

 

「罠」とか「騙された」とか書きましたけど、全体としてみて、間違いなく、永く記憶に残る展覧会となりました。

 

なお、完全に余談ですが、この「迷宮」で使用されている大量のカーテンは本展終了後、トートバック用に裁断され、再利用されるのだそうです。

現在、会場で予約販売されています。

どこまでも森村泰昌らしい企画展でした。

 

 

森村泰昌 「モデルヌ・オランピア」 (2020年 原美術館での展示を撮影したもの)

 

LVMHのゲルハルト・リヒター

ゲルハルト・リヒター「Abstrakt」
 ■2021年11月19日〜2022年5月15日
 ■エスパス ルイ・ヴィトン大阪

 

ある日本の若手アーティストが「ゲルハルト・リヒターばかり高く売れるからウンザリする」とぼやいていたことをちょっと思い出してしまいました。

心斎橋のエスパス ルイ・ヴィトン大阪で約半年にわたって展示されたリヒターの作品18点。

文字通りお高いブランドのビルの中でみると、超高額での取引が当たり前になっているリヒター作品がさらに高そうにも見えてきます。

 

jp.louisvuitton.com

 

しかし、実物を観ればわかりますが、高くて当たり前、なのです。

ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter)の芸術を特徴づけている最大の要素、それはとびきり上質な「技術」だと、私は思います。

 

本展のキービジュアルとして採用されている「ニンジン」(MÖHRE 1984)にしても、初公開になるという"940-4 Abstraktes Bild"、"941-7 Abstraktes Bild"にしても、一見、ランダム性が強く感じられる抽象絵画です。

しかし、じっくり鑑賞していると、色彩配置から筆致、全体の構成に至るまで、驚異的に洗練された絵画表現技術が駆使されていることに気がつくと思います。

荒々しく走っているように見える絵筆の痕跡に入念な技巧が仕込まれています。

どのようなテクニックを使ったらこれほど繊細な描画が可能なのだろうか、というくらい。

全くテクニックとは無関係の、勝手に自己完結しているようなモダン・アート絵画はいくらでもありますが、リヒターに関しては、独断と偏見に満ち満ちた印象として、十分、その「技術」にまずお金を払って良いと感じさせてくれるところがあります。

だから、高い、のです。

 

1932年、ドレスデンに生まれたリヒターは、戦後、まず東独支配下となった美術大学で徹底的に伝統的絵画手法の技術を叩き込まれた人です。

西側に脱出し、ヨーゼフ・ボイス等の薫陶を受けながら、デュッセルドルフで新しい才能を開花させてからも、一貫して彼の芸術の根本には、東独時代に身体レベルで染み付いたのであろう、厳格に上等な技術の力があるように思えてなりません。

 

 

LVMHが Fondation Louis Vuittonを開設したのは2014年。

美術館としては10年にも満たない歴史しかありませんが、すでに有名現代アーティストの作品を数多くコレクションに加えていて、日本人では草間彌生村上隆の名が確認できます。

リヒターに関しては、1960年代の、まだモノクロームが支配していた時代から、本展にも登場している"Strip"など、厳しく鮮烈に階梯を織りなす色彩芸術が印象的な2010年代頃まで、多彩な作品を入手。

そのいずれもが、ゲルハルト・リヒターの芸術の中でも非常に完成度が高い、特級の作品だと思います。

 

www.fondationlouisvuitton.fr

 

今年、リヒターは90歳。

来月、6月7日から東京国立近代美術館で大規模なリヒター展がいよいよ開幕します。

心斎橋で半年開かれていたミニ・リヒター展は、竹橋への長い導火線、だったのかもしれません。