大阪画壇展、ではない「大阪の日本画」展|大阪中之島美術館

 

開館1周年記念特別展 大阪の日本画

■2023年1月21日〜4月2日
■大阪中之島美術館

 

昨年2月に開館した大阪中之島美術館が1周年記念展として企てた特別展です。

異例の長期間に及んだ「大阪市立近代美術館準備室」時代に黙々と収集してきた近代大阪で描かれた傑作の数々を、ようやくまとめて展示する機会を得たキュレーターたちの執念が随所に感じられる素晴らしい展覧会。

未知の画家によるとんでもない名品が連続。

気がついたら鑑賞時間は3時間を超えていました。

 

nakka-art.jp

 

「大阪の日本画」。

一見すると捻りが全くない漠然としたタイトルと感じます。

しかし、実はこのいかにも「普通」なネーミングが深い意味をもっています。

 

当たり前のことですが、「日本画」という言い方は江戸時代には存在していませんでした。

明治近代に入り、「洋画」が意識されてはじめて登場した対概念です。

つまり本展はこの「日本画」という一見平凡な単語を使うことによって、時代として明治以降、大阪に根ざし活躍した画家たちが描いた作品の特集であることを実に短く的確に明示しているのです。

 

ただ、そうはいっても、より響きが良さげな「大阪画壇」という言い方でも良かったのではないか、とも思えます。

「東京画壇」「京都画壇」に比肩するようなこの魅力的な用語をなぜ採用しなかったのか。

実はその理由も明確に示されています。

 

図録巻頭の「総論」と題された一文の中で、この美術館の林野雅人主任学芸員が述べています。

「大阪画壇」としてしまうと、そこには「洋画」も入ってきてしまうのです。

それを避けるためにもこの表現を用いなかったということ。

筋が通っています。

特に大阪の場合、洋画の分野では小出楢重というビックネームが存在しています。

あえて「日本画」とすることで、洋画系の大家をはずし、テーマを絞りきりたかったということでしょう。

「大阪の日本画」、実はとても簡潔にして要をえたエレガントな展覧会名なのです。

 

全体構成も見事に整えられています。

まず、近年、特に注目度が高まっている北野恒富一派の妖艶な作品群で鑑賞者の視覚を鷲掴みにした後、恒富系とは全く別の巨匠、菅楯彦とその系譜に連なる画家たちによる洒脱な名人芸の世界に導入してちょっと緊張を解く。

その後に矢野橋村によるダイナミックな新南画の迫力で一気に中盤のクライマックスを築きつつ、これぞ大阪の保守本流、本展のメインコンテンツともいえる文人画と「船場派」の多様な美の有り様をこれでもかと披露していきます。

最後に女流画家たちを中心とした愛らしい作品群を撮影OKコーナーとしてまとめて設けてサービスし、観客を送り出すという流れ。

タイトルの概念が大きい分、形式や内容があまりにも多岐に及ぶので、下手をすると散らかった構成になってしまいそうになるところを、実によく計算され、まとめられていると感じました。

 

北野恒富「紅葉狩」(部分)

 

昨年、京都国立近代美術館が「サロン! 京の大家と知られざる大阪画壇」展という、実にマニアックな素晴らしい企画展を開催してくれました。

岡田米山人と半江親子、西山派の祖師たちといった京近美で特集された近世大阪絵師たちの仕事がどのように近代以降受け継がれ、花開いていったのか、各流派の系統が整理された解説板も実に丁寧な労作。

今後、同種の企画展が計画されるとき、必ずリファレンスとなるような資料的価値も高い画期的な特別展に仕上がっていると感じます。

 

それにしても、全く名前を知らなかった画家たちの数の多さ。

不勉強をあらためて自覚する展覧会にもなりました。

 

例えば矢野鉄山(1894-1975)。

矢野橋村の甥にあたる愛媛今治出身の画家だそうなのですが、初めてその名と作品に接することになりました。

今回、愛媛県美術館から出展されている「孤琴涓潔」という大作は、その異様な表現手法に圧倒されます。

当然に橋村の影響を受けているのでしょうから新南画風の細かい水墨表現が基調ではあるのですけれど、木々や岩の表現は西洋幻想画を思わせるようなところがあって、南画とは思えない余白のとり方を含め、ちょっと類例が思い浮かばない独特の気配を放っています。

 

それと、おそらく本展を契機に大阪美術アカデミズム方面が新たなタームとして定着を狙っているとみられる「船場派」とくくられた画家たち。

四条派の流れを受けて船場を中心に活躍した画家たちのことをこのような流派としているわけですが、その写実表現は確かに京都の影響を感じるものの、事物の捉え方に独特のクセというか「見方」の違いもあって、興味は尽きません。

 

前期(〜2月26日)と後期(2月28日〜4月2日)に明確に分けられていて、かなりの作品が入れ替わるようです。

また、東京にも巡回(東京ステーションギャラリー 4月15日〜6月15日)するのですが、大阪での展示品が全て都内でも展示されるのか、まだ東京展の出品リストが確認できていないのでよくわかりません。

一方、図録をみると、いくつか大阪会場で欠番になっている作品もあります。

目立ったところでは、カタログNo.1の北野恒富「摘草」と最後No.170の池田遙邨「雪の大阪」でしょうか。

いずれも中之島美術館を代表する名作です。

「雪の大阪」などはすでに複数回展示されていて、今後も展示機会が頻繁にありそうですから、あえて今回の大阪会場での展示は見送り、丸の内会場への挨拶代わりとするようです。

 

 

 

 

黒田辰秋の初期家具特集|アサヒビール大山崎山荘美術館



没後40年 黒田辰秋展 ―山本爲三郎コレクションより

■2023年1月21日〜5月7日
アサヒビール大山崎山荘美術館

 

黒田辰秋(1904-1982)が、法界寺や日野誕生院のすぐ近く、醍醐日野畑出町の自宅で亡くなってから40年(命日は6月4日)。

記念の回顧展が大山崎で開催されています。

といっても網羅的な作品展ではなく、主に、1928(昭和3)年、ある博覧会を機にまとめて制作された黒田若き日の家具類に焦点があてられた特集。

文字通りこの人の原点を感じることができる好企画です。

www.asahibeer-oyamazaki.com

 

1928年、昭和天皇即位を記念して「御大礼記念国産振興東京博覧会」が上野で開催されました。

柳宗悦が中心となって京都で活動を本格化させていた民藝運動のグループは、この大博覧会に個別のパビリオン「民藝館」を開設し話題を集めます。

これは民藝が自分たちの美意識、思想を丸ごと建物として提示した画期的な企画だったのですが、それを資金面でバックアップしたのがアサヒビール創業者で熱烈なこの運動の支持者であった山本爲三郎(1893-1966)でした。

山本は博覧会閉幕後、「民藝館」をそのまま買取り、当時自宅があった大阪・三国(今の新大阪駅からやや北西側あたりの地域)に移築、柳宗悦によって「三國荘」と名付けられ同家で使用されることになりました。

 

この「民藝館」のちに「三國荘」となった建物を飾る家具類を一手に制作したのが黒田辰秋です。

アサヒビール大山崎山荘美術館は2015年に「山本爲三郎没後50年 三國荘展」を開催し、既にこのユニークな建物にまつわる美術工芸品をまとめて紹介していますが、今回の企画では、黒田の家具だけにスコープを合わせていて、山本コレクションに残る黒田作品の全てを一気に展示しています。

その種類は椅子、テーブルや棚、郵便受からマッチ箱に至るまで大小、実に多種多彩で、本当に一人でこれだけの品々を短期間で造り上げたのか、信じられないくらい。

当時20歳代半ばだった黒田の高い創作熱量がダイレクトに伝わってくるような迫力に圧倒されます。

中でも、面白かったのが照明器具の数々。

黒漆でスタイリッシュにデザインされた打火器には、民藝的な土臭さというよりむしろアールデコを思わせるような面もあって、中には今でも十分通用するモダンなセンスが感じられる作品もありました。

 

年表からたどる黒田の幼年、青春時代にはほとんど明るい雰囲気が感じられません。

祇園清井町にあった塗師屋の六男に生まれた彼は、幼い頃に罹患した天然痘の跡を生涯気にしていたと言われています。

一時、蒔絵師のもとに修行に出ますが体調を崩し挫折。

分業が当たり前だった漆器業の家に生まれたのに、その分業制自体に反発し鬱々とした日々をおくっていた黒田にとって、河井寛次郎柳宗悦との出会いはまさに僥倖だったのでしょう。

あっという間に民藝の世界にハマりこみ、有名な「上賀茂民藝協団」(上賀茂南大路町・現在は天下一品の本部になっている場所にありました)を青木五良、鈴木実と1927年に結成。

「民藝館」そして「三國荘」の企画はこの協団設立後まもない頃に与えられた大仕事でした。

しかし、個性と情熱の塊のような若人たちが寝食を共にしていたこの団体は、1929年、人間関係の拗れからわずか2年余りで解散し、疲弊した黒田は一時、滋賀の岩根に籠り療養生活を余儀なくされることになりました。

本展で紹介されている黒田の初期家具作品は、まだ実績がほとんどなかった上賀茂時代のとても短い時期に集中して制作されたシリーズであって、それがまとめて丁寧に保存されていること自体、稀有なことといえそうです。

 

協団解散後も柳宗悦は別団体に黒田を推挙するなど心配りをしていたようですが、結局その後の黒田の作風をみていると、民藝の本流からは遠ざかっていったように感じられます。

本展の後半では、数は限定的ながら、拭漆や朱塗の逸品や、黒田辰秋の代名詞ともいうべき耀貝(メキシコ鮑のこと・棟方志功によって命名された一種の工芸造語)の細工などが主に佐川美術館から出展され目を楽しませてくれます。

黒田辰秋は、民藝が尊んだ「用の美」あるいは「無名工人の芸」といった主義主張そのものよりも、分業職人の世界から解き放たれ、一個人だけで仕事を創造してしまう河井寛次郎のような存在自体に惹かれてこの運動に飛び込んだようなところがあるように思えてなりません。

後年の黒田作品からはいずれも、質朴さや無名性とは真逆の「技巧」、「作家性」が自ずと強烈に立ち上がってきます。

「三國荘」を黒田家具でまとめた民藝信奉者、山本爲三郎自身は、その後、この作家の作品をほとんどコレクションに加えていないようです。

テイストとして後年の黒田が民藝とは違った方向に進んでいることを、山本は、推測ですけれど、鋭敏に感じとっていたのではないでしょうか。

そしてこの人の家具類は、ついには皇居新宮殿の中に置かれることにもなるわけで、民藝の質朴さとはかけ離れたある種、ソフィストケートされた世界に彼が到達していた証左にもなっていると思います。

 

ただ、後年の洗練されたセンスと確固とした技術力の根底には、木材自体や貝類、そして漆といった「素材」に対するとてつもなく真摯な向き合い方があるのも間違いないことで、その「原点」は、実は、上賀茂時代の家具にすでにしっかりと確認できるように思われました。

 

さて来年、2024年は黒田辰秋生誕120年のアニバーサリー・イヤーです。

大規模な回顧展などの企画に期待したいところです。