書名からは一般的な教養書の類を想起させられますが、中身はかなり対象と時代が絞られています。
実質、噛みごたえがある歴史学術書に近い本と感じました。
グルメ雑学のネタ本になるかも、と軽い気分で手に取ると期待を裏切られることになります。
主に二つの部分から成り、前段三分の二は、中世から近世にかけて、山科家の日記を中心に当時の食文化の一端を探る内容。
残る三分の一は奈良興福寺の塔頭に伝わる『多聞院日記』他に拠りながら、日本酒完成までのプロセスや発酵食品の数々を紹介しています。
著者の吉田元は1947年生まれ。
京大農学部・院卒ながら、およそ学業とは縁のない種智院大で教鞭を執った経歴の持ち主です。
就職難の中、なんとかこの真言宗系大学の講師職を得ることができたそうです。
結果として微生物酵素学の知見と古文書文献探究の道がクロスし、本書が完成。
1991年人文書院からの刊行、2014年文庫化されました。
明治維新後、大半の公家は京都を去りましたが、二つの家が残りました。
歌道の下冷泉家と、宮中の服飾等を管轄した山科家です。
昔、ある老婦人から「冷泉さんは貧乏やったから、天皇さんについて東京に行かれへんかったのや」と何度も皮肉めいた噂話を聞かされたものです。
山科家について彼女は何も言いませんでしたが、この本の中で著者がしっかり「山科家の貧乏暮らしは有名」と書いてしまっています。
著者がいっているのは中世から近世にかけての史実に残る山科家のことですが、結局、家勢や諸事情から、両家とも東京に居場所を見つけられなかったのかもしれません。
現在では装束文化関連に収斂している山科家。
かつては「供御人」として服装だけでなく宮廷の食にも深く関与していました。
歴代の当主たちが几帳面に日記を残していて、特に山科言継のそれは『言継卿記』として室町末期から戦国時代に関する重要な文献史料とされています。
本書では言継の前後、15世紀から16世紀までの約200年間、同家関連の日記資料を丁寧に読み解きながら当時の食文化を辿ります。
ただ、貧乏とはいえ、それは公卿クラスの中での話で、一般庶民とは、かけ離れた食生活であった前提を忘れてはならないと思います。
その点で言えば「日本の食と酒」というタイトルは正確に本書の内容を表しているとは言い難いかもしれません。
「中世貧乏公卿の食道楽と、奈良酔っ払い坊主の酒造り日誌」あたりが妥当とみましたが、これでは本が売れないでしょう。
(なお当初の人文書院刊行時は副題として「中世末の発酵技術を中心に」とありました)
15世紀、山科教言の時代、既に豊富な魚介類が都の市場に見られることに驚きます。
例えば、若狭からの鯖街道でもたらされたというサバの押し鮨に代表されるように、加工品が主流で、種類も限られていたとみなされがちな京都の魚食文化。
しかし、海から遠い故に魚介不毛の地であったと短絡的に考えることはできません。
「食べる人」が大勢いるから、その需要が流通網もろとも、食材を呼び寄せることもあるのです。
北海道の一漁港より、コストをかければ、都内の方が新鮮な北海の多種多様な魚を消費者として食することができます。
今も昔も事情は同じ、ということのようです。
悪食系の食材も登場します。
秀吉や家康に招かれ、生鶴や、朝鮮から塩漬けにされて運ばれた虎肉等が供されたそうです。
しかし、そのような珍味について、著者によれば、いずれも肝心の味に関する感想が日記に見られないのだそうです。
推測ですが、これら珍貴系ジビエは山科家当主の口に合わなかったのではないでしょうか。
当時の日記は他人に読まれることを前提に書かれています。
時の権力者が良かれと思って提供してくれた食材にまずいとは言えません。
だからノーコメント。
逆に、仮に美味と思ったとしても、供御人の家柄として、鶴だの虎だの、絵画のモチーフにすらなるような吉祥動物の「味」について云々することは憚られたのではないでしょう。
またうっかり美味いと書いて、後世、それが否定されたら宮廷食に関与した家として面目丸潰れと考えたのかもしれません。
名水に恵まれた京都では本書が取り上げた時代、酒屋が多く営まれたそうです。
しかし、現在では伏見をのぞき、市内に残る酒蔵は多くはありません。
五条坊門西洞院の「柳酒」、烏丸五条の「梅酒」などが有名だったとされていますがその痕跡すら辿ることはできません。
灘や伊丹の酒には勝てなかったということでしょう。
塩辛く黒茶色の法論味噌は17世紀頃まで五条柳馬場に店がありましたが、その後、お馴染みの白味噌文化が席巻することになります。
しかし、菓子については現在まで名前をつなぐ店が確認できます。
山科家日記の後代を受けて紹介されている黒川道祐著『雍州府誌』に菓子の種類別に屋号が記録され、著者が一覧表にまとめてくれています。
「道喜」の名が見えます。
粽で有名な川端道喜に繋がるのでしょう。
饅頭ではあの「虎屋」。
「塩瀬」の名も見えますが、こちらは完全に東京の店になってしまいました。
17世紀以降、食材の消費地としては江戸や大坂に抜かれ、生産地としては酒のように他国に凌駕されてしまった京都に結局残ったのは、寺社仏閣や茶道文化と結びついた和菓子でした。
日本酒については農学博士らしく細かく淡々と醸造過程を著者は説明していますが、具体的イメージにつながらないので理解が及びません。
ここは読み飛ばしました。
しかし「火入れ」(雑菌を排するために行われる日本酒の低温殺菌技法)に関する部分は興味深く読めます。
パストゥールがフランスでワインの加熱処理による滅菌技法を開発する300年前、『多聞院日記』や『御酒之日記』などの史料より、日本では「火入れ」による酒の防腐対策が実現されていました。
ただ、それはサイエンスに裏打ちされた技法ではなく、僧侶たちの長年の経験によって生み出された結果にすぎないと、著者は手厳しく断じています。
確かにパストゥールに先んじた実績はあるものの、明治以降になっても結局日本では酒の腐敗対策に手を焼いていたのであり、理論を伴わない「火入れ」の技法を、欧州に先駆けて云々と自慢するのは筋違いと結論づけています。
これは同感です。
科学者らしい客観的な記述が支配的ですが、疫病による子供たちの死や正親町天皇の勅勘で京都を追い出されるといった山科家を襲う数々の不幸については同情的で記述が少しウェットになります。
文体がわずかにギアチェンジする様が著者の人間性を表していているようで面白く読みました。