論理的に思考するにはどうしたら良いか、ということが書かれている本ではありません。
むしろその逆で、思考が自ずから論理である、と読み取れます。
鍵となるのは「言語」、あるいは「言語規則」。
記号論理学の手法を骨太に駆使して鮮やかに「思考」と「論理」の関係性が明示されるテキストです。
元々は放送大学の教材として書かれたものです。
1986年に刊行、98年に『大森荘蔵著作集7』(岩波書店)に収録されました。
2015年、筑摩書房が文庫化しています。
教科書の一種だからわかりやすく端的に説明しようとする著者の姿勢が反映されています。
といっても、酒を飲みながらぼんやり読んでいても話が全く頭に入ってきません。
特に記号論理学による説明部分は、基礎訓練を受けていない身には難行苦行。
短い文庫ですが読み終わるまでずいぶん時間がかかりました。
(というより脳処理が追いつかず、読み飛ばすことすら時間がかかったという言い方が正しいでしょう。)
はじめに、大森荘蔵はやや刺激的に「表現の誤り」という誤解を粉砕しようとします。
「まず先に言語化を一切受けていない純生(じゅんなま)の経験というものがあり、その経験を言語で表現するのが言語化だという、私が「表現の誤り」という誤解である。」(p.42)
例えばある音楽や絵画を鑑賞したとして、その経験をもとにあれこれ言葉で感想を述べたりすることがあります。
当たり前のように誰でも行っていることですが、この「経験をもとに」、というところが大いなる誤解の原因であると大森は指摘します。
元来、音楽や絵画鑑賞は聴覚、視覚などの「知覚」によってなされる「現在」の経験です。
一方、それを振り返る言語は「過去」が対象です。
つまり大森にいわせれば、両者は全く違う経験であり、そもそも比較すらできない関係にあります。
にも関わらず、両者を比べ知覚による現在経験が言語表現を生み出すとみてしまう。
この「純生経験から言語表現」へというプロセス自体が、「誤解」だと大森はまず言い切っているのです。
これが正しいのであれば、詩人はみんな失業でしょう。
彼らの多くは自己の内外で感じた「純生(じゅんなま)」の経験を言葉にして生きているのですから。
しかし、よくよく考えてみれば、大森の言っていることが至極真っ当なことと気づきます。
例えば、私がある温泉に入浴し、その感想をこのブログに書くとします。
しかし、その感想=言語が、私が温泉で経験した温度や触感、匂い、お湯の色、そのものを表しているわけでは決してありません。
私の文章力が拙いから、ということもありますが、本質はそういう話ではないのです。
どんなに優れた文章の書き手でも、知覚した経験をそのまま丸ごと表現することは絶対にできないのです。
言われてみれば当然のことと思われました。
私は書きながら、うっすらと入浴している感覚に再び浸っているわけではないし、ましてやその感覚を読み手に直接伝えられるわけでもありません。
知覚した現在経験をそのまま伝える。
そんなことができるわけは、そもそも、ないのです。
つまり、過去を言語によって想起したとき、それは「純生の経験」を表現しているわけではなく、全く別個の経験だということを大森は示しています。
次の通りに。
「知覚において現在経験が原初的に経験されるのと並んで想起において過去経験が原初的に経験されるのである。」(P.45)
大森が執拗にこの「表現の誤り」を正そうとしている目的は、その後の展開を読めばわかります。
「思う」こと、「思考」は過去を想起することで「言語」になります。
というより、言語にしたときに「思考」が形成されるとも言えるでしょう。
人は、何がしか常に「思って」いるが、その「思い」を言語にしたとき、それは既に「過去」のことです。
どんなに瞬間瞬間の経験を「純生」のまま表そうとしても、言語として発したとたんに、それは「過去」の想起を原初的に経験しているのであって、現在経験を言語表現化しているわけではありません。
言語にはルールがあります。
つまり言語規則です。
大森はこの言語規則そのものが「論理」だと説きます。
となると、言語の世界では、実際の現在経験が論理的であるか否かは関係ない、ということになります。
なぜなら、現在経験から言語は生まれないのだから(「表現の誤り」)。
この切断の仕方は鮮やかという他はありません。
こうして大森は言語には言語規則、つまり「論理」がある、と明晰に定義しました。
このことが本当に正しいのか、その証明を大森は、接続詞(「または」とか「もし・・ならば〜」など)等をとりあげて、記号論理学により解き明かします。
ここが実は本書のメインパートです。
つまり、この部分が放送大学のテキストとしては最も重要なところなのでしょう。
でも私は学生ではないので、なんとなくわかったことにしておくことにしました。
(つまりは結局わかっていない、ということです。)
しかし、ここで繰り広げられる大森の証明プロセスにみられる説得力は、記号論理学から遠く離れて生きてきた私にも十分感じ取れます。
冒頭本書について「骨太」と表現したのはそうした意味においてでした。
(記号論理学をマスターした上でいっているわけでは全くありません。)
「思考」すること、それは言語で行われると大森はいいます。
そして、その言語は言語規則という「論理」によって成立していることを証明しました。
知覚による「純生の経験」と、言語による「想起の経験」が全く別の体験であるという認識のもとで、言語によって表現された世界、すなわち思考された世界はそれ自体で論理である、ということになります。
明快です。
ただ、明快ではありますが、結局まだ何も私はわかっていません。
もちろんこれで世界が理解されたわけでもなんでもありません。
それでも、何かがパッと開けたように感じます。
こういう読後経験は滅多にありません。
さて文庫版解説で野家啓一があらためて指摘しているように、この言語規則と世界の関係についての説明はサヴィア=ウォーフの「言語によって世界観が決定される」というテーゼのことではありません。
大森にいわせれば「それぞれの世界観には異なった言語が最適になる」ということらしい。
確かに量子論の世界では大森自身が述べているように、ここで説明された論理学は通用しません。
記号論理学のテキストとしてというより、大森のいう「表現の誤り」の指摘が衝撃的でした。
「生の体験」と「言語化」。
そのそれぞれが「原初体験」だということ。
無頓着に感覚体験を語ることへの反省を促されました。
言語によって表された世界は、生経験の追体験やその表現などでは決してなく、全く別の体験として立ち現れています。