「自己中心的で、プライドが高く、人と接することが苦手な性格」(p.134)
藤原定家の気質を著者はこんな一言で表しています。
定家へのアプローチは大きく分けて二通りあると思います。
一つは言うまでもなく歌人として。
「新古今和歌集」に代表される歌やアンソロジーが研究対象となります。
もう一つは平安末期から鎌倉初期を生きた一人の公家として。
こちらは「明月記」が手がかりです。
本書は当然に後者の立場をとりますが、単に定家一人に焦点をあてるのではなく、彼を取り巻く人々を重層的に追いつつ、定家の前後である俊成、為家の代まで時間軸を拡大しています。
「明月記を読む」ではなく、まさに「明月記の世界」。
タイトルに偽りはありません。
「場所」に関する記述が多いと感じます。
冒頭、平安京の碁盤の目を用いて、定家が一日どのように都の中を移動したのか、その軌跡を明月記の情報をもとに図示しています。
これによれば定家の主な業務ルートは東洞院通です。
家司として仕えていた九条の兼実邸から一条大路まで、ほぼ都の南北を真っ直ぐ縦断する通勤コース。
地下鉄烏丸線でいえば九条駅から今出川駅くらいが相当するようにみえます。
およそ6駅分の距離があります。
もちろん馬や牛車を時には利用していたようですが、それでもなかなかに大変な通勤ルートです。
定家は生涯で何度かお引っ越ししています。
そのプロセスを著者は明月記から丹念に読み解いていきます。
平安京と現在の京都市内がおぼろげながらリンクする面白い記述です。
さて、歌人としての定家の評価はいくらなんでも既に定まっています。
著者は文学者ではありませんから、その方面の論評を本書の中では行なっていません。
他方、人間定家はといえば、冒頭に記載したような性格が明月記から滲んでくることが明らかにされていきます。
もっとも、自己中心的で人と接したがらないプライドの高い文化人などという存在は今も昔も相当に多いと想像されます。
この日記による性格分析だけで、定家が特にひどいとはいえないでしょう。
著者がとりわけ疑問視している定家の振る舞いがあります。
それは子供たちへの態度です。
末っ子の為家を親馬鹿丸出しで可愛がりその将来に希望を託す一方、母が違うとはいえ長男の光家には冷酷ともいえる態度をとり続ける定家。
光家が律儀で実務能力もそれなりにあった人物と推測されることから、定家の理不尽さが著者にはかなり不満にみえたようで、光家に対し随所で気の毒そうに同情しています。
「官位はもう望まない」などと主人である九条兼実に皮肉めいた宣言をしたかと思えば、昇進に異様なほどこだわっていた有様を日記に事細かく記載しています。
除目で自分を差しおいて評価された者への定家流罵詈雑言は本当にきつく、定家にかかると、端から端までみんな無知無能、大馬鹿者扱いです。
本書は、明月記に記されていることを丁寧にトレースすることで結果的に浮かび上がる定家像を提示しています。
ただ、先にみた親馬鹿ぶりに対する批判のように、著者の主観による定家評がふんだんに織り込まれているので、無味乾燥な史料分析本の類とは趣が異なります。
批判はしても、どこか定家への親近感を常に感じさせる文章が続いていく印象を受けました。
定家周辺の人々のことについては明月記に加えて『愚管抄』等を適宜参照し補足しています。
源通親による九条兼実追い落とし劇である「建久の政変」に関する分析も説得力が高いと感じました。
ともすると脇におかれがちな女性たちの生涯もかなり詳細に掘り起こされていて読み応えがあります。
なお著者は丸谷才一の名著『後鳥羽院』を参考にしたとしていますが、定家と後鳥羽院の文学上の複雑な関係についてはあまりつっこんだ記載をしていません。
そのあたりになるとどうしても歌人としての定家評に踏み込むことになるため、日記を基礎とした本書では避けたのかもしれません。
さて、京都・烏丸松原の辺りに「俊成社」があります。
やしろといっても大きな建物があるわけではなく、ビルの片隅にひっそりと設けられた小さな祠です。
それと知らずに気にとめなければ通りすぎてしまうでしょう。
添えられている京都市の由緒書板には、祀られている定家の父、藤原俊成の館がこの近辺にあったことから近隣の人々が祀ったと記されています。
しかし、著者によれば、本来の館「五条京極邸」はここではなく、もっと東の寺町通、桝屋町・京極町辺りだったそうです。
それはともかく、俊成は91歳まで生きました。
著者の村井康彦は1930年生まれですから今年2020年、90歳。
本書(2020年10月新刊)を読むかぎり、超のつく現役学者といって良いのでしょう。
どちらの方にも畏れ入るばかりです。
90歳の著者から見れば80歳で没した定家は「まだ若い」のかもしれません。