現在、京都市京セラ美術館で開催されている「KYOTO STEAM スタートアップ」展(2020年 10月31日〜12月6日)ではアーチストや芸術系大学が、企業や研究機関とコラボした大規模作品が紹介されています。
「細胞とガラス」は、映像作家の林勇気が京大iPS細胞研 (CiRA)とのディスカッションによって創作した映像作品。
ナレーションがついています。
語り手はどうやら1型糖尿病に罹患したガラス工芸作家という設定。
自分のiPS細胞を使って豚の中で臓器をつくり、それを自分に移植することによって病気から開放されていく。
もちろん現在では実現されていない、未来を想定した医療の話です。
淡々と豚の細胞と自分の細胞との不可思議な関係などが語られていきます。
ところで、作品とは関係ありませんが、最近、ガラスという物質について面白い研究結果が公表されました。
「ガラスは固体と液体の中間状態にある」という論文。
東大や上海交通大学、グルノーブル大学の研究者たちによる共同レポートです。
ガラスは熱を加えることによって液状化しますから、当たり前のことを言っているように思えますが、実はそうではありません。
超ミクロのレベルで見ると、固形の状態でもガラスは絶えず「分子の再配置」を行っているのだそうです。
つまり、一見、固まっているように見えるガラスは、実はミクロの世界で常に変化しているということになります。
その再配置の仕方が「拘束された空間」のなかに限定されているから、見た目ではわからないだけ。
ガラスはまさに液体と固体の中間的な存在だという結論。
新発見らしいです。
「ガラスと細胞」で工芸家は奇妙な注文を受けたことを語ります。
取り壊される自分の家の窓ガラスを使って器を作って欲しいという、友人からの注文。
一旦ガラスを溶かして再成形するということでしょう。
窓から器に変わったガラスは、形状は全く違いますが、素材レベルでは不変ともいえます。
しかし、その器はかつて、窓ガラスとして確かに固有の役割を果たしていました。
窓ガラスとしてのガラスが器としてのガラスに重なり合ってくる不思議な心象図像が浮かび上がってきます。
豚から取り出した臓器は豚のものなのか工芸家のものなのか、元は工芸家のiPS細胞ですが、それが豚の中で臓器になった時、工芸家は自分の臓器と言い切って良いのか。
工芸家の中で機能しているその臓器に、豚のなかにあった頃の臓器が重なってきます。
ガラスとは違い、こちらの心象図像は何やら割り切れない、得体のしれない不気味さをたたえて浮かんできます。
もちろん、これは私の心象図像であって、映像作品がこんなことを言っているわけではありません。
ガラスは固体と液体の中間的存在。
窓であった頃も器に変えられた後も、ガラスは分子レベルで再配置を繰り返している。
林勇気もCiRAもおそらくこのガラスに関する新研究レポートを知らずに作品をつくったと思います。
しかしガラス自体、ロマンティックにいえば、常に生まれ変わっている物質。
生死を繰り返す臓器の細胞たちと実は似たような存在といえなくもありません。
偶然このガラスに関する新発見を知った後に「細胞とガラス」を観たので、幾重にも思考が渦巻くような体験をすることになりました。
映像自体は窓に写った風景等が工芸家の心象と重なるような美しいもの。
淡々としたナレーションはまるで本当に臓器移植の経験をした人の語りかのように聞こえます。