「源氏物語」は誰が書いたのか?|今野真二『日本語の考古学』

 

日本語の考古学 (岩波新書)

日本語の考古学 (岩波新書)

  • 作者:今野 真二
  • 発売日: 2014/04/19
  • メディア: 新書
 

 

今野真二著 『日本語の考古学』 (岩波新書 2014年4月)

 

万葉集』から漱石の『こころ』まで。

多彩なテキストを豊富にとりあげながら、「現代」の単眼的な視点では見えてこない、「過去」における日本語の有り様が探索されている新書です。

 

歴史の流れと澱みによって隠されてしまった「過去に生きた日本語」を「ハケで土を落とす」ように、まさに考古学のようにあらわにしていきます。

やや専門的な古文研究の領域に拠った記述があるので、全編読みやすい本とは言えないかもしれませんが、丁寧にテキストを腑分けしていく著者の手法に惹き込まれました。

 

源氏物語』の作者は紫式部に決まっています。

他方、『平家物語』については、「信濃国前司行長」の名が知られるものの、作者を特定できないというのが通説。

でも著者によれば、『源氏物語』も誰が「書いた」のか、よくわからない、ということになります。

 

紫式部日記』に書かれている藤原公任紫式部のやりとりから、だいたい、この物語が宮中で読まれはじめていた時期はわかるものの、いつ完成したのかすら、実は、判明していません。

無論、自筆本も残されてはいません。

 

作者生前の頃ですら、さまざまに可変されていた可能性がある『源氏物語』。

さらに時代を経ていく中で、現在定本の一つとされている藤原定家が書き写した本文が、どのような変化を紫式部の時代から受けてきたのか、これもはっきりとはわからないのです。

 

つまり「源氏物語を書いたのは紫式部である」という言い方は、必ずしも正しくはない、ということになってしまう。

伝わっている複数のテキストを用いてその差異を示しながら、「常識」に揺さぶりがかけられていきます。

一方、『平家物語』は琵琶法師たちによって謡われ、つながれてきた物語。

特定の作者を元々想定しにくい文学です。

 

しかし、「音」として声に出した時の魅力はむしろ、一人の作者ではなく、さまざまな人々がこの物語を「語り」変えていく中で豊かになっていったともいえるのではないか。

著者は『平家物語』を「流動するテキスト」(P.124)として、むしろ「作者がいない」ことの意義を、このように、端的に指摘しています。

 

揺らぐ『源氏』と、流れて魅惑を増す『平家』。

実に面白い対比をみることができました。

 

くずされた古文は特別な訓練を受けない限り、とても判読することができません。

しかし、古典書写のエキスパートであったはず中世知識人も、平安文学を苦労なく読み取れたわけではないことが、『土佐日記』をめぐって解説されています。

 

室町時代まで紀貫之による自筆が現存していたとみられる『土佐日記』は藤原定家、その息子為家、松木宗綱、三条西実隆によって書写されています。

こちらは『源氏物語』とは違い、「誰が書いた」かについては紀貫之であることがはっきりしています。

しかし、三条西実隆は自筆本の中に「オタマジャクシ」のようにしか見えない文字があることを嘆いてもいるのです。

室町時代、すでに仮名の変異などによって当代一流の文化人ですら判読が困難な文字が生じていたことになります。

気の毒なような、ちょっと安心したというか。

「四つ仮名」という厄介な問題についてふれられた部分もとても面白い。

「四つ仮名」とは「ヂとジ」「ヅとズ」の使い分けが、その発音が同じであることから混乱してくるという問題のこと。

公家衆の中には動物の名前を自分の名前にしている者がいるとして「烏丸殿」「鷹司殿」「猪熊殿」と列挙する中、「万里小路殿」もそうだと指摘した人が笑われるという江戸時代の笑い話が紹介されています。

万里小路」を「までのこうし(仔牛)」としてしまったためにおきた間違いです。

当時は「小路」を「こうぢ」と仮名にするところ、笑われた人は「こうじ」と勘違いしていたのです。

「ヂとジ」の使い分けが17世紀頃、すでにわかりにくくなっていたことをしめす例として著者があげているわけですが、現代、「小路」は「こうじ」と仮名にするのが一般的なので、もはや笑えない笑い話なっています。

 

単語そのものの成り立ち、「行」がどのような発想から生まれてきたのか、印刷導入によって生じた誤植を正す「正誤表」から読み取れる字句や意味の変遷など。

キリシタン版」も含む豊富な例示と詳細な分析はやや専門的すぎるものの、読み応え十分です。

 

古典のテキストをデジタルで縦横無尽に扱えるようになっている現在だからこそ、「ハケ」で土を払うように実物から「日本語」を掘り出す作業に醍醐味があります。

 

そんな魅力を伝えてくれる新書でした。