ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 作品13「悲愴」
ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調 作品作品27-2「月光」
ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 作品57「熱情」
ヴァレリー・アファナシエフ
(Sony Classical SICC-10223 SACDハイブリッド 2015年リリース)
ジャケットに写るアファナシエフは"JE SUIS BEETHOVEN"と印刷されたカードを胸に抱えています。
これは2015年1月、この録音の直前、パリで起きたシャルリー・エヴド襲撃事件の際、人々が掲げた抗議のメッセージ"Je suis Charlie"に彼が触発された結果、写されたものです。
事件から時間が経ってこのジャケットを見ると、「私はベートーヴェンだ」と宣言するピアニストの姿だけが残ってしまい、ちょっと意味不明な感じを受けますが、アファナシエフの人柄を端的に示しているともいえます。
舞台でみるアファナシエフはまるで寡黙な呪術師といった風情を漂わせています。
かなり昔、さいたま芸術劇場で彼がジョージ・クラムの「マクロコスモス」の一部を弾いたとき、ピアノの中にチェーンをジャラーンと垂らすその姿に、何かの秘儀をみるような感覚に襲われたことを今でも鮮明に覚えています。
しかし、実際のアファナシエフはなかなかに饒舌で、このSACDのオマケとしてついているDVDでは気さくにインタビューに応じ、意外に普通の人という印象。
「芸術は伝達するものでも、聴衆を征服するものでもなく、抵抗だ。」と言い切る彼は、「ベートーヴェンを守る」と宣言。
その「守る」という意味は、演奏の伝統を守るとかそういう意味ではなく、彼が彼の感じるままに自由に演奏できるベートーヴェンを守る、という意味なのでしょう。
実際、このディスクに聴く演奏は、ドイツ系ピアニストが連綿と繋げてきたベートーヴェン解釈や、師匠であるギレリスのそれとも、当然に異なっています。
3曲とも意外なことにアファナシエフ初の録音。
DVDでの発言によれば、「弾きたい衝動」につき動かされて、ようやくこの超メジャー名曲をとりあげることにしたのだそうです。
まるで彼が弾くシューベルト最晩年のソナタのようなベートーヴェンです。
どの曲もテンポはかなり遅めに設定されていて、たっぷりとした余韻と静寂を内に抱え込んだような演奏。
中期ベートーヴェンのもつ音楽の推進力がことごとく打ち消され、あてどもなく漂うシューベルトの音楽のようにおのおののフレーズが深沈していきます。
しかし、それはテクニックの衰えからくるテンポ設定ではまったくなくて、陰翳と色彩を織り交ぜつつもどこまでも明瞭なタッチがまっとうされています。
最大の聴きものはアパッショナータでしょうか。
ピアノ音楽というより何かの「語り」を聞いているような序奏。
ベートーヴェンの「意志」を明確に感じさせるような音楽ではなく、目的を定めず移ろいゆくシューベルトの彷徨に近い印象を受けます。
しかし、随所に仕込まれた煌びやかさすら伴う劇的表現が抒情の世界に安住することを許しません。
ソナタの構築美が消し去られた後に現れる美しくも静かな冥府絵巻の世界が繰り広げられます。
2015年2月、ハノーファー、ベートーヴェンザールでのセッション。
アファナシエフの精妙なペダリング術まで抜かりなく捉えた優秀録音だと思います。