北澤憲昭『眼の神殿』と「美術」

 

 

■北澤憲昭著『眼の神殿 - 「美術」受容史ノート』(ちくま学芸文庫)

 

美術の授業でひどく劣等感を埋め込まれたような人は別にして、「美術」という言葉にことさらに負のイメージをもつ人は稀れだと思います。

しかし、本書を読むと、この言葉が現在もっている全方位的にポジティヴな価値が揺らいできます。

 

著者によれば「美術」の最初の用例は、日本政府がウィーン万国博覧会(1873年)参加に際して、その前年1872(明治5)年に作成した「出品分類」にみられます。

この段階での「美術」はまだ音楽や詩などもその概念に含まれた言葉として訳されていたそうです。

(なお、「美術」の初用例について、著者はこの文庫版の中で、西周による訳出説をあらためて語気強く否定しています)


幅広い芸術一般を指す言葉であった「美術」が、なぜもっぱら「視覚」=「眼」の芸術である、とりわけ「絵画」を指して使われるようになったのか。

さらに、現在の博物館・美術館といった器がどのような淵源からこの国で機能するようになったのか。

「美術」という比較的新しい日本語がこの100数十年でまとった塵を落とすことによって、この言葉が、実は、そのもっとも遠いところにあると感じられる、政治や行政と言った「制度」と一体となってこの国に定着していった歴史が語られていきます。

 

明治前期、高橋由一が構想した「螺旋展画館」=「眼の神殿」という異形の空想装置を、あたかも「種火」のように扱いつつ、美術という言葉がもつ意味が変化していった様を、その「美しい」、というよりむしろ殺伐とした変遷史として明らかにしていく。

1989(平成元)年に出版されてから2000(平成12)年の「定本」出版、そして2020年の文庫化と、30年以上読み継がれてきた名著です。

扱っている時代の幅は主に幕末から明治20年代までと、さほど広くはありません。

しかしその30年あまりの時間の中で、この国の「美術」が被った波は凄まじいものがありました。

フォンタネージとの、ある意味幸福な出合いにより、高橋由一がつくりだした明治最初期のこの国における「洋画」の初々しい流れは、早くも明治10年代になると国粋主義の対抗によって危ういものなっていきます。

さらにフェノロサ、それに続く岡倉天心の言説は、一時、生まれたばかりの「洋画」の息の根を止めてしまうほどに強烈なものであったようです。

フェノロサは日本絵画の救世主のように崇められますが、その主張の本質は、西洋近代の価値そのものを、日本伝統絵画の価値をもまるまる絡め取った上でこの国に根付かせようとするものでした。

つまり、みようによっては、かなり野蛮な侵略主義的挑戦だったともとれるかもしれません。

 

「視覚」をことさら上位においたデカルト以来の西洋近代。

その価値観が「美術」を「絵画芸術」を主に指す言葉へと変容させていくことになります。


本書はやがて黒田清輝の帰国をまってはじまる洋画復活の前夜までを扱っているのですが、その短い時代の中で、「美術」を動かすダイナミズムは目まぐるしく遷移するこの時代の政治動向とまるで軌を一にするかのようです。

さらに「美術」は「博物館」という装置を得て、ついには天皇という一元的価値に収斂されていきます。

「帝室博物館」という形をまとって。

この国の博物館の起源が「博覧会」にあることが詳らかにされていきます。

博覧会は、その少し前まで「見せ物」として楽しまれていたもの。

恒久施設というよりその場限りのエンタテインメントでした。

今日、「東京都美術館に行く」というより「伊藤若冲展に行く」という方が自然に響くのはまだこの国の「ミュージアム」が、「見せ物」の起源からさほど隔たっていないのかもしれない、そんなことも考えさせられた一冊でした。