中村裕太と石黒宗麿 (京都国立近代美術館)

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エデュケーショナル・スタディズ02:中村裕太 ツボ_ノ_ナカ_ハ_ナンダロナ?
 ■2020年12月24日〜2021年3月7日
 ■京都国立近代美術館

 

食器などの陶器は日常生活の中に溶け込みすぎていて、意識的にとらえない限り、空気と同じような存在。
しかし、突然その物質としての存在を荒々しく顕示することがあります。

割ってしまったとき。

怪我をしないように慎重にその破片に触れたとき、はじめてその器が土から生み出された物体であることを苦々しい後悔とともに想起することになります。

 

現在、京都国立近代美術館の常設コーナー(4F)では、とても面白い体験ができます。

器を破損してしまったときにいだく瞬間的な自己嫌悪の感情をまったく抜きにして、陶片そのものの存在を直接的に感得できる企画。
陶片それぞれが持つ個性的なその手触り、ひんやりした表面のヴァリエーション。そして何よりその「厚み」と「重み」。
陶磁器の醍醐味は手で実際に持ったときの感覚にあるといわれますが、それは完成された器としての有り様が前提。割れた断面のもつ「厚み」や、土としての来歴に戻った破片の「重み」は割った時にしか感じることができません。

 

八瀬で独自の窯を開いていた石黒宗麿。
大陸の古陶器再現を目指していたその窯の周辺には夥しい陶片が散乱。作家によって認められなかった陶器の破片が残されていたのだそうです。

現代陶芸アーティスト中村裕太とMOMAKのコラボレーションによって、石黒の八瀬陶窯から拾われた陶片が新たな存在の意味をまとって展示されています。
MOMAKでは視覚障害のある方とアーチスト、学芸員が「見る・見えない」に関わらない、新しい鑑賞体験を探索。その一環として今回の特別展示が催されています。

たくさんの壺に入れられた陶片。
鑑賞者はそこに手を入れて、目ではなく、手触りで石黒が製作を試みた器の断片を味わう。
まず驚いたのは、その「厚み」、そして「重さ」でした。
陶片表面のさまざまな触感の違いを楽しむことで釉薬の個性を感じる楽しみもありますが、それより、なにより、着実に指に手に伝わる陶片断面の厚さと質量。ざらりとした質感と共に、直接伝わってくる焼けた土の存在感。土の種類や焼き方によってその質量は異なり、同じようなサイズの陶片でも重さが全然違う。
壺に入れられていることで陶片の視覚情報が遮られる。触覚だけが陶片と向き合う感覚器官になります。
他方、意識の中には、事前の解説情報によって、これが石黒宗麿の無念の塊り、とまではいわないまでも、一陶芸家によって放棄された物質であることがインプットされています。陶片を触っている間、触感と意識が微妙に混ざりあう。
もっと純粋に陶片表面の滑らかさの違いを楽しむ鑑賞方法がおそらく企画者の意図なのでしょうけれど、私には「表面」より「断面」の強烈さと、ずっしりとあるいは軽やかに個性を主張する「重さ」の妙が指と頭に直接的に伝わってしまったようです。

 

コロナによって「触れる」ということ自体が禁忌になっている現在。余計、手指が敏感になっていたのかもしれません。とにかく面白い体験でした。

 

このコーナーには石黒の代表的作例である「鉄文壺」など、しっかり素晴らしい「完成品」も展示されています。
視覚、触感、そして「情報」。滅多に直接的にコラボレーションしない感覚と意識が混じり合う体験。堪能することができました。

 

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