京都市京セラ美術館で開催されている「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) 1989-2019)」展(〜4月11日)。
東山キューブの中に数多の作品が詰め込まれ、さらに各作品同志が剥き出しで隣り合っていたりしますから、見ようによってはまさに瓦礫の山とも感じられます。
ただその中で、一つ、周囲から隔絶された白い空間に、個別に格納された作品があります。
國府理(1970-2014)による「水中エンジン」、その「再制作」。
もともとは、2012年、アートスペース虹(京都)で発表された作品です。
透明の水槽に車のエンジンが収められています。
エンジンの駆動音らしいゴロゴロとした音が展示空間に終始不気味に響く。
本来、この水槽には実際に水が入れられていたのだそうですが、展示制約から水は抜かれています。
作品の傍に作者である國府理のステートメント(作品発表時)が掲載されています。
この作品が東日本大震災の原発事故に着想を得たものであることが語られています。
暴走する「熱源」を冷やす唯一の手段が、こともあろうにいたって身近な「水」であったということ。
熱源の重大さに驚くと同時に、まるで水の中で「対流」を起こすように拡散していってしまう放射能、その深刻さ。
「私はこの展示において、科学的、工業的なシステムにとどまらず、さまざまな連関によって凝集している核心とよぶべきものと、それを源とする拡散の様子を提示できないかと考えている。」(同ステートメントより引用)
國府理は2014年、「相対温室」という作品を青森公立大学 国際芸術センター青森で展示するための準備中、事故死しています。
したがって、「平成美術」展では、作者不在のままこのインスタレーションが「再構築」されていることになります。
遠藤水城、白石晃一、高嶋慈、はがみちこ、4人による企画によって制作されました。
さまざまに間主観性を強烈に問うてくる作品です。
展覧会タイトル自体に「瓦礫(デブリ)」とありますから、原発事故との関連性がすぐ想起されるわけで、まったく先入観をもたずにこの作品と対峙することは難しいのですが、あえて、白紙の状態を想定して鑑賞を試みるとどうなるか。
透明なケースの中に吊るされている無骨なエンジンとノイズ。
真っ先に感じるのはその息苦しさ、でした。
実際に排気ガスが展示スペースに放出されているわけではないのに、あの独特の臭気と苦々しい味が伝わってくる。
「水」がない分、余計「空気」の毒々しさが強調されているように感じます。
次に作者のステートメントに依拠し、エンジンを原発のメタファーとしてみてみます。
すると、今度はエンジンがまるで生き物の循環機関のように、何かを語りかけてくるような存在に変貌。
禍々しいはずの装置が不思議な生命力を得て迫ってきます。
そして最後に、「作者の死」という事実を知った上で、作品と向き合ってみました。
今度はこの作品そのものを包む真っ白い空間、そして「水が入っていない水槽」自体が語り出してきます。
國府理の死因は調整中だった自身の作品から放出されたガスによる中毒死とされています。
その場に座り込んでしまいたくなるような気分に襲われました。
ただ、これら三様の作品との向き合い方のどれが鑑賞者として最も相応しいのか、その比較自体、無意味とも思います。