泉涌寺仏殿の東隣に「泉涌寺水屋形」(みずやかた)があります。
とても小さい建物です。
1668(寛文8)年、横に建つ巨大な仏殿の再建と同時期に建てられたものとされています。
泉涌寺はかつて「仙遊寺」と称されていましたが、1226(嘉禄2)年、俊芿(しゅんじょう)によって伽藍が整備されたとき、泉が湧出。
それに因んで「泉涌寺」になりました。
そのまさに泉を囲っているのが「水屋形」です。
現在でも少量ながら湧き出ているようです。
柿葺に緩やかな曲線をもった破風。
面白いのは波を打っているような欄間です。
水を縁としたイメージが直截的に表現されていて、わずかに遊び心すら感じさせる形状。
神も仏も祀っているわけではない小建築ですが、寺の名前にもなっている霊泉を守り伝えようとする丁重なこだわりが結晶しているように感じます。
京都市指定文化財です。
乾いた砂利に覆われた境内の中でここだけが苔むしています。
いまや潤沢とはいえない水量でも確かに湿気を感じさせる一角です。
泉涌寺は真言宗の寺院ですが、どちらかといえば禅宗寺院に近い雰囲気が感じられます。
実質的な開祖ともいえる俊芿自身が、この寺を律宗を中心としつつ天台・真言・禅を含めた道場と規定した上に、天皇家との関係が密接になったため、結果として実に多様なスタイルの建築物が境内に配置さることになりました。
寛文年間に徳川家綱の支援によって再建されたという仏殿は近世禅宗様式を採用しています。
大門と舎利殿は慶長年間に御所から移築されたものです。
歴代天皇の位牌を安置するという霊明殿は明治の御所宸殿風。
水屋形の隣には梵字を刻んだ塔が建っています。
語弊はありますが、なんでもありという境内。
なお、四代将軍家綱による京都の寺社支援といえば八坂神社本殿(1654)も有名で、つい先頃こちらは国宝指定されました。
泉涌寺仏殿(重要文化財)は祇園造の八坂神社ほど建築的特異性はないかもしれませんが、17世紀中期、同時期の建築としてその完成度は非常に高いと感じます。
これだけ多様なスタイルが混交しているのに、泉涌寺の境内には不思議と雑多な雰囲気が漂っていません。
その秘密は大門から仏殿までのアプローチにあると感じます。
東山、月輪山にあるとはいえ、伽藍はやや窪んだ平地に造営されています。
例えば知恩院のように三門から上へ上へと視線を集めていくアプローチとは逆に、泉涌寺は大門から仏殿に向かって下に勾配を持つ参道が続きます。
この「下る軸線」が他の寺院と違った凛とした空気を伽藍にまとわせているように感じられるのです。
大門をくぐった直後に現れる仏殿の遠景。
組物を屋根の下に隠した品格ある姿が非常に印象的です。
舎利殿、霊明殿がその背後にほぼ垂直に並んでいるので、様式の雑多性が上手に相殺されています。
水屋形は、こんな多様なスタイルと品位を絶妙に混交させる泉涌寺をある意味代表する建築です。
泉の隣にはこの近くで晩年を過ごしたという清少納言の歌碑まで建っています。(すり減っていてほとんど判読できないのですが)
夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ
小倉百人一首にとられたあまりにも有名なこの歌を石に刻ませたのは平安博物館(現京都文化博物館)館長の角田文衞なのだそうです。
幾重にも時代が混交する水屋形です。