祇園の弥栄会館は1936(昭和11)年、木村得三郎(1890-1958)の設計。
木村はこの10年ほど前、1927(昭和2)年、先斗町歌舞練場の設計も担当しています。
戦前の大林組で活躍した「劇場建築」の名手といわれる建築家。
建仁寺の北東に隣接し、祇園の内奥に鎮座するこの建物は和洋折衷を基礎としながらも、建設当時、1930年代(昭和10年代)の公共建築で推進された、いわゆる「帝冠様式」の厳しさはありません。
遊興の街の近代建築として比較的軽やかで華やいだ雰囲気をもっています。
しかし、同じ建築家の先斗町歌舞練場と同じく、どこか妙な異形さがあり、この近辺では群を抜いて高層であることも相まって、周囲の低層茶屋建築群のもつ洗練された和の様式とは異質な雰囲気を醸し出しているようにも感じられます。
一力茶屋から建仁寺あたりまでの「絵になる祇園」の中では突出した異形建築。
この建物を背景に写真をとる観光客の数は、現在、それほど多くはないのではないかと推測されます。
弥栄会館の異質さはどこか伊東忠太の「祇園閣」と通じるところがあります。
共に鉄筋鉄骨コンクリート造の和様を取り込んだ楼閣風建築。
すでに京都での仕事を手がけていた木村得三郎の目に、すぐ近所にそびえる伊東忠太の同工法建築が意識されたとしても不思議ではないように思えます。
歌舞練場がフランク・ロイド・ライトの旧帝国ホテルの様式をおそらく参考にしているとみられるのに対し、弥栄会館は銅で吹かれた屋根にお城のようなモチーフを多用。
これは祇園閣と共通する要素です。
さて、2019(令和元)年、帝国ホテルが「弥栄会館を活用した新規ホテル」の検討を公表し、弥栄会館を所有する学校法人八坂女紅場学園とその準備について基本合意したことがプレスリリースされています。
帝国ホテルといえば、その創業者は祇園閣の施主、大倉喜八郎です。
東大路を挟んで祇園閣と高さを競った弥栄会館が、まもなく帝国ホテルの京都における出城になってしまいます。
異形の楼閣二対が不思議な縁で結ばれてしまったようにも思えます。
弥栄会館は耐震性の問題などが指摘されていましたが、帝国ホテルによる活用検討段階の現在、高層部分には崩落防止用とみられるネットが被せられています。
どう「活用」されるのか、できるだけ現在の姿に妙な手を加えない形での運用をお願いしたいところです。