先日京都文化博物館で鑑賞した小早川秋聲展。
会場の一角で、秋聲の画業を紹介したBSフジ制作によるドキュメンタリー番組の映像が流されていました。
番組の中では、意外な場所に秋聲の絵が飾られていることが紹介されています。
濱登久の店内に作品が展示されていたことに驚きましたが、もっと意外だったのは詩仙堂を飾る三十六詩聖の板絵が小早川秋聲の手による模写だったというお話でした。
板絵のオリジナルは、詩仙堂を造った石川丈山と親交があったという狩野探幽の作とされています。
そもそもここを詩仙堂と呼ぶ所以となった絵です。
考えてみれば江戸時代初期に描かれた探幽筆の板絵が、なんの維持保存措置も取られないまま、観光客がひっきりなしに訪れる詩仙堂の内部に直接飾られているはずがありません。
二条城などと同様、模写が飾られていて当然なのですが、それが秋聲の筆によるものだったとは全く知りませんでした。
ということで、紅葉混雑が始まる前に、秋聲作品確認のため、詩仙堂を訪問してみました。
「詩仙の間」東西南北、四方の壁上部に隙間なくずらりと中国の詩人たち36人一人一人を描いた小さな板絵が飾られています。
照明はなく、天井近くに懸けられているため外光が直接あたることもありません。
仄暗い中に詩聖たちの顔や装束が浮かんできます。
展覧会図録に記されている詳細な年譜によれば、小早川秋聲がこの模写を完成させたのは1962(昭和37)年、77歳のとき。
2年がかりで仕上げたのだそうです。
秋聲が亡くなるのは模写完成から12年後の1974(昭和49)年ですが、詩仙堂での仕事以降、主だった作品が残されることはほとんどなかったようです。
描かれてからまもなく60年。
公開中は戸が開け放たれ、外気に晒され続けている「詩仙の間」ですから、所々剥落が見えるなどこの模写自体にもやや傷みが確認できます。
しかし色彩には目立った汚れもなく特に装束の装飾性は豪華さすら感じられます。
36人それぞれ個性的で、様式性を誠実に守りながらも紋切り型にはめ込んだような適当な作画は一枚もありません。
よく見ると、目の下、涙袋を強調して描かれている人物が何人も見られます。
これは秋聲の人物表現においてよく見かける特徴で、独特の雰囲気が面相に与えられています。
この描画は果たして探幽の原画にもともとあったものなのか。
それとも秋聲が独自に施した線なのか。
この場では原画と比較することができないのでなんとも言えません。
しかし非常に細やかに示された詩聖たちの表情からは、狩野派とはちょっと違った印象が立ち上ってきます。
戦後は体調を崩し作品の数もかなり少なくなる秋聲ですが、板絵群には、小さいながらもとても格調高い画風がみられ、晩年までしっかりその技量を維持していたことが伝わってきます。
なぜすでに体調が万全ではなかった秋聲が詩仙堂の模写36枚に取り組んだのか。
秋聲展図録の年譜には1951(昭和26)年5月、雑誌『淡交』に「名席巡礼 詩仙堂の四畳半」という随筆を寄稿したことが記されています。
また模写を完成させた年の3月には石川丈山を描いた絵を詩仙堂に納めています。
石川丈山は東本願寺渉成園の作庭に関わったと伝えられ、真宗大谷派ゆかりの人物。
大谷派の僧籍を持っていた秋聲には特に親しい存在だったのかもしれません。
全くの憶測ですが。
さて、詩聖の中で、一人、ほぼ後ろ向きに描かれ、面相が全く読み取れない人物がいます。
これは石川丈山の意向だったのか、狩野探幽の好みが反映されたのか。
それとも李商隠については、面相を描くことが古くからのお約束事として禁じられていたのか。
わかりません。
単に適当な肖像図が見つからなかっただけなのかもしれませんが、頽廃の美まで宿している李商隠の詩風をむしろ隠すような地味すぎる描き方。
秋聲も装束の色味をグッと渋く抑えて模写しています。
色々想像してみたくなる面白い図像でした。
【詩仙堂HPにある「詩仙の間」写真リンク画像】