発見された日本の風景 美しかりし明治への旅
■2021年9月7日〜10月31日
■京都国立近代美術館
不思議な展覧会でした。
286点に及ぶ明治期の洋画が、京近美の3階に設営された迷路のような展示スペースに延々と飾られています。
しかもこの夥しい作品群は全て一人のコレクターによって収集されたものとのこと。
展覧会では本人の意向からか、そのコレクターが誰なのか明示されてはいませんが、調べればすぐT氏の名前にたどり着くはずです。
浅井忠、田村宗立、黒田清輝、五姓田義松、大下藤次郎、丸山晩霞といった大家や、今年都美術館が取り上げて再注目された吉田博、洋画史においてトピックス的に登場するお馴染みのワーグマンなど、見知った画家の名前も見えます。
中川八郎の「雪林帰牧」など、個人コレクションとしては超のつく名画も楽しむことができます。
しかし、展示作品の多くは、ややマイナーな画家たちによって占められている印象。
T氏が画家の名前ではなく、描かれたものと描かれた時代に特別な想いを持って集めたのであろうことが強く伝わってきます。
東京も含め、近美がこの規模で匿名扱いのコレクター一人が収集した作品のみで構成した展覧会を過去開催したことがあったかどうか。
まずこの企画自体が不思議でしたが、T氏の明確な収集志向によって、そのコレクションが自ずからある種の企画性を帯びていたために成立した展覧会といえそうです。
さて、企画以上に、もっと不思議だったのは何点かの作品が放つ異様な「眼」の有り様です。
本展の副題に「外から見る」「外へ見せる」とあります。
「外から見る」は当時日本にやってきていた外国人画家の眼。
「外へ見せる」は洋画の手法を手に入れたばかりの日本人画家の眼。
特に展覧会前半、日本の東から西へと旅するように配された風景画の多くにその瑞々しい眼を感じることができます。
しかし、この企画展では、画家たちの「眼」が捉えた景物・人物が、単純な内と外のベクトルでは区分できない、なんとも不可思議な画像となって現れている作品にも出くわすことになります。
まず「外から見る」側、つまり外国人画家の作品についてみてみると、例えば、エーリヒ・ギプスによる「鎌倉大仏」から感じる画家の異様な眼差し。
長谷の大仏が強烈な存在感を持って描かれています。
一般的な正面からではなく、徹底した横からのアプローチで図示されている構図にまず妙な違和感を覚えます。
さらに周囲で踊っているようにも見える人物たちと大仏とのあやふやな距離感や、その意味が読み取れない仕草が不気味さを際立たせています。
エキゾチシズムだけで捉えた景物描画であれば当時の外国人の眼として納得できるのですが、ここには妙に対象の遠近感がズラされた写実があり、下手なのか上手なのか、リアルなのか幻影なのか、見るほどに不思議な感覚に襲われる作品でした。
仏像つながりでみるとアルフレッド・パーソンズの「雪中の仏像」。
雪を被って座る仏像が描かれた油彩画で、全体はなんの変哲もない情景描写です。
ところが仏の顔は明らかに実際の彫像ではあり得ないほどにうつむきすぎています。
結果、如来の悟りなどとは程遠い、何やら不吉なものでも地下に見出しているような表情に見える。
同じパーソンズの「富士山」はいかにも「外から見る」眼が素直に捉えた画像として納得の絵画なのですが、「雪中の仏像」には単純に「外から見る」だけに終始しない画家の内奥に秘められたもう一つの眼があります。
見慣れない日本の彫像に触発され、そのもう一つの眼が視線をあらわにしてしまったかのように感じられるのです。
他方、「外に見せる」眼の方でも一筋縄ではいかない作品がちらほら顔を見せています。
本多錦吉郎は兵庫県立美術館が所蔵する「羽衣天女」が特に有名ですが、この展覧会では2枚、独特の迫力を持った作品が紹介されています。
「障子から覗く少女」と題された水彩は、自然な表情からはほど遠い、奇妙な笑みを浮かべた少女が、現実離れした、まるで標本でも描くかのように突き放された写実で描かれています。
西洋的な写実技法をとことん勘違いして駆使した結果生み出された珍妙さが、画家の大真面目な仕事ぶりによって余計際立つという、摩訶不思議な絵に仕上がっています。
本多錦吉郎による印象的なもう一枚は大判の油彩「豊穣への道」。
こちらは「障子から覗く少女」とは技法も表現方法も全く違った濃密な世界が描かれています。
仕事帰りの農夫たちと思われる人々が夕闇に溶け込んでいるのですが、その陰翳があまりにも濃いため、遠近法が強烈に効果を発揮しすぎて画面の中に吸い込まれそうになるほど。
「羽衣天女」のいかにも洋画黎明期を代表したかのような明るい折衷の面白さだけではない、この画家の深い眼差しをみるようでした。
面白い眼、という点ではなんといっても笠木次郎吉でしょう。
展覧会のチラシや会場前のディスプレイに使用されている「牡蠣をとる少女」の抒情的な図像はいかにも「美しかりし日本」を代表しているようですが、この画家の真骨頂は別にあるように感じます。
「新聞配達人」にみられる残酷なまでにキャラクターを抉りだすような、見ようによっては劇画チックとさえ言いたくなる過剰に描き込まれた人物画。
一方で、母親に抱っこされた子供の表情には、例えば泰西名画にみる幼児期イエスのちっとも可愛くない訳知り顔の表現を借用したような、微妙な気持ち悪さが滲みます。
笠木の眼には、「外に見せる」というより、やや歪んだ「外」がすでにその中に入り込んでいます。
その上で、外の人たちにウケるように描こうというサービス精神が旺盛にからまってくるので、およそ誰もみたことがない、強烈なアクのようなものが対象にこびりつく。
経歴もよくわからない人だそうですが、真水と海水が混ざり合うような明治洋画黎明期が産んだ奇想系の画家ともいえそうです。
この企画展を契機に美術系のメジャーなメディアが取り上げたら一気にブレイクしそうなくらい、奇妙に訴求力のある画風を持った人です。
とにかく圧倒的な点数なので、うっかりじっくり観ていると2時間くらい経ってしまいます。
「美しかりし明治」というタイトルに嘘はありませんが、それよりも所々に仕込まれた画家たちの「異様な眼」が見所だと思います。