冷泉家住宅の内部

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令和3年度・第57回京都非公開文化財特別公開が始まりました。

烏丸今出川にある冷泉家住宅の公開は10月30日から11月3日までの5日間。
9時から16時まで。


邸内奥にある土蔵・御文庫の前には、長々とスタッフからの解説を聞いている人たちで渋滞する混雑が見られましたが、座敷内の様子はじっくり観察できる程度に余裕がありました。

ただ、敷地自体がとても狭いので見学者に比して配置されているスタッフが多すぎるのではないか、とも感じます。

 

1994(平成6)年から2000(平成12)年にかけて行われた解体修理の前、今出川通に面して冷泉家住宅を囲んでいた土塀や表門はいつ崩れるかわからないほど傷んでいて、中の建物もずいぶん古色蒼然とした雰囲気を漂わせていた記憶があります。

現在では、屋根を瓦葺から創建当初の柿葺に戻し、「むくり屋根」と呼ばれる近世宮廷公家建築特有の優雅な勾配が復元されています。

国指定の重要文化財

ちょっとした庭のようなスペースがありますが、敷地内のほとんどは座敷棟によって占められていて、開放感は全くありません。
周りは同志社の赤煉瓦が包囲しています。

しかし、建物自体には不思議とごちゃごちゃした圧迫感がありません。
軒桁を支える舟肘木の数が抑制される等、建物上部の構造がいたってシンプルに整えられているからでしょうか。

室内は山吹色の地に雲母で牡丹唐草文様を押した唐紙によって一面覆われ、色調が見事に統一されています。

西から順に「使者の間」「中の間」「上の間」と広間が一列に連なります。
東に向かうほど、身分の高い人が使う部屋とする決まり事。
これは、規模が全く異なりますが、京都御所「諸大夫の間」の仕組みと一緒です。

所々に原派風の杉戸絵や狩野派みたいな屏風・襖絵が見られるものの、全体のトーンを崩すような煩さはなく、落ち着いた格調が重んじられたインテリア。

ただ、これでは「何もない」と見られかねないと配慮してか、冷泉家伝来の陶磁器類などが縁側に展示されています。


室内に入ることはできません。
外から屋敷の中を覗くことができるだけです。
10分もあれば、住居全体を鑑賞することができます。

これで1000円(税込)の料金というのはいかにも割高なのですが、元々この特別公開事業は文化財の維持修復を名目にしていますから、寄付ととらえて納得するしかありません。
なお撮影は全面的にNGです。

 

現在の土地に冷泉家が居を定めたのは1600年代初め、慶長年間のことなのだそうです。

しかし1788(天明8)年の京都大火によって、近所の御所や相国寺ともども屋敷は焼け落ちてしまいます。

ただ、そのとき、御文庫と呼ばれる土蔵は奇跡的に焼け残りました。

定家以来の嫡流に近い二条家や京極家が絶えてしまい、歌の名門御子左家の家系に伝わった家宝の大半を結果的に受け継ぐことになった冷泉家

土蔵御文庫に助けられ、「明月記」をはじめとする貴重な文書類を守り抜き、大火のわずか2年後、1790(寛政2)年、同じ敷地内に屋敷を再建します。

現在みられる建物がこれにあたります。

 

この近辺を襲った「天明の大火」の凄まじさを物語る証拠が冷泉家住宅のすぐ北側、同志社大学ハリス理化学館にあります。
「ハリス理化学館同志社ギャラリー」内の考古展示として一般公開されています(こちらは無料)。

数メートルに及ぶ、室町時代あたりから現代に至るまでの地層が展示されています。
江戸後期と幕末頃の堆積層に挟まれて、赤茶けた土の帯が確認できます。
ここだけはっきりと数センチにわたって変色。
文字通りの焦土。
天明の大火による爪痕です。

これほど猛烈な炎に抗して焼け残った、冷泉家御文庫の耐火性に驚きます。

なおこの後の幕末、蛤御門の変に伴って発生した「元治の大火」(どんどん焼け・1864年)では、御所の南側、つまり冷泉家住宅とは反対方向に火の手が回ったため、類焼を免れています。

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近世公家建築の残存例はごく限られていて、冷泉家住宅の他には、二条城本丸御殿として移築された桂宮邸と、京都御苑南西に位置する閑院宮邸しかありません。

両宮邸はその規模と格式から残されたことに違和感はありませんが、それと比較すると冷泉家住宅はいかにも普通サイズの住居。

寺社建築のような豪奢な設えはどこにもないし、立派な庭園があるわけでもありません。
独特の格調高さは感じられるものの、規模はいかにも小さい。

なぜ残ったのか、不思議といえば不思議です。

東京奠都に伴って御所近辺に集まっていた公家の邸はほとんど取り壊されましたが、冷泉家は破却エリアからわずかに北へズレていたため、そのまま残ることになったそうです。
加えて、優れた耐火性を発揮した御文庫をこの土地から移すことが憚られたということでしょう。
東京にはいかず、京都にとどまった。
(「冷泉さんは貧乏だったから東京に行かれへんかったのや」という口の悪い人もいますが)

結果として、関東大震災にも第二次大戦の空襲にも遭わず、現在に至っています。

天明の大火での奇跡から、維新直後の公家邸破却、震災、戦災の回避。
幾重にも偶然が重なって、この建物が残ったことを思うと、その規模の小ささ、簡素さが、むしろ貴重に見えてきます。

 

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