上野リチと晩期ウィーン工房

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上野リチ: ウィーンからきたデザイン・ファンタジー

■2021年11月16日〜2022年1月16日
京都国立近代美術館

 

上野リチ(Felice Rix-Ueno)は1893年、ウィーンで生まれたオーストリア人デザイナー。

両親は共にユダヤ系です。

1967年、京都で亡くなっています。

以前は「フェリーチェ・リックス」という日本語表記が一般的だったと思います。

建築家上野伊三郎と結婚し京都で活躍していた頃、彼女が「上野リチ」名を勤務先等で使用していたことから、今回の大規模回顧展ではこの表記を採用したのだそうです。

ただ、中年期以降の彼女はどことなく日本人的な顔つきをしているようにも見えるため、この表記が一般化すると、Felice Rixという生粋のオーストリア人が「上野リチ」という、まるで日系人かのように勘違いされてしまうのではないかと、余計なお世話的心配をちょっとしてしまいます。

www.momak.go.jp

 

その「上野リチ」という和風表記に反して、彼女の芸術からは「日本」も「京都」も実はそれほど感じられません。

そして、もっと不思議なのは、上野リチが参加したウィーン工房の創設者、ヨーゼフ・ホフマンやコロマン・モーザーの作風とも彼女のそれが全く違うところです。

 

ホフマンやモーザーの作品が本展の冒頭に紹介されています。

ウィーン工房作品のコレクションで知られる豊田市美術館他から借り受けた食器や家具などの工芸品が多数並んでいます。

初期ウィーン工房作品の特色は当然にセセッション風の幾何学装飾美なわけですが、フワフワと軽やかに図柄が自由に飛び交う上野リチ作品との共通性は、一見、ほとんど感じられません。

上野リチの活躍した分野がもっぱらテキスタイル・デザインであったという事情を抜きにしても。

 

しかし、ホフマン等の作品に続いて、突然、おそらく上野リチに大きな影響を及ぼしたであろうと思われるデザイナーの作品が登場します。

ダゴベルト・ペヒェ(Dagobert Peche 1887-1923「ペッヒェ」とも表記されます)。

1912年作の「蓋つき物入れ」(島根県立石見美術館蔵)は黒い下地に花や蝶らしい虫が散らされた器で、ここにはホフマン-モーザー的様式性は感じられません。

代わりに繊細かつ軽快な「かわいらしさ」の要素、つまり上野リチとの共通項が色濃く現れています。

 

ペヒェがウィーン工房と関わりを持つのは1911年。

オットー・ワーグナーの70歳祝賀会でヨーゼフ・ホフマンと出会ったことがきっかけなのだそうです。

1915年には正式にテキスタイル・デザイナーとしてウィーン工房に参加します。

上野リチ(当時はフェリーツェ・リックス)がウィーン工房の芸術家工房に加わるのが1917年。

ちょうどペヒェが工房の主要メンバーになっていた頃と重なります。

この頃のウィーン工房は、第一次世界大戦の影響で高価な工芸品などが売れなくなっていたことに加え、徴兵で男性メンバーが極端に少なくなってしまうという苦境に立たされていました。

しかし、そんな中でも女性デザイナーが多いファッション・テキスタイル部門だけは元気。

工房でのペヒェの活躍にリチが刺激を受けなかったことは考えにくいと思われます。

(ペヒェ自身はウィーン工房チューリヒ支店長に就任するなど、指導的立場で活躍しますが1923年、36歳という若さで亡くなってしまいます。)

 

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イースター用ボンボン入れ」に代表される、愛らしさと軽快な色彩を好んでデザインに取り入れた上野リチの作風は1920年代にほぼ確立されたのではないでしょうか。

図録の中でアンネ・カトリン・ロスベルクが「ペヒェの参画によって、ウィーン工房のスタイルは全く新しい方向に進むことなった」と解説してくれています。

ホフマンやモーザーにみられる様式とリチの作風との断絶の間に、ダゴベルト・ペヒェの存在があったことが、今回の展覧会でよく理解できたように思います。

 

上野リチは夫伊三郎とのつながりから、一時高崎でブルーノ・タウトと一緒に仕事をしています。

しかし、その作風が全く違ったことから不和となってしまったのだとか。

展覧会ではタウトの堅牢な木製ベルトと、繊細な形状をしたリチのフォークが近接して展示されています。

確かに、言われてみれば、いかにも相性がわるそうです。

 

晩年、上野リチは建築家村野藤吾の依頼で、日比谷・日生劇場内にあったレストラン「アクトレス」の内装デザインを請け負います。

村野の要望は「1930年代ウィーンの装飾画」。

描かれた花や鳥たちを見ると、一見、日本画に描かれた花鳥のような軽やかさがありますが、よく見るとそこにいわゆる「和」のテイストはほとんど感じられません。

もちろん、図録の中で、阿佐美淑子が指摘しているように、元来、リチの中に、平面的なデザイン性など、西欧がすでに取り込んでいたジャポニスム的な要素が内在しているとは思います。

しかし上野伊三郎と結婚し、京都に住んでから直接的に日本文化から影響を受けた要素はおそらくさほどないように感じます。

アクトレス」の内装は、ウィーン工房時代、すでに彼女が会得していた作風によって仕上げられていると見た方がしっくりくるような気がします。

だから村野もOKを出したのでしょう。

直接的に「日本」や「京都」が表出されてしまったら、それは「1930年代ウィーン」にはならないわけですから。

 

村野藤吾も面白い人です。

彼は都ホテル(現ウェスティン都ホテル京都)旧貴賓室内装の壁紙等に上野リチによるデザインを採用しています(製作は川島織物)。

先日鑑賞した京都市京セラ美術館の「コレクションとの対話」展では、同じ都ホテルの中宴会場内装を、時期は全く違いますが、京都近代染織の第一人者、山鹿清華に任せていたことが紹介されていました。

建築設計だけでなく、その内側の隅々にまで自身の美意識に即したアーティストを起用し仕上げていく。

プロデューサー的視点とセンスをもっていた建築家です。

大きく後期ウィーン工房の作風に影響を与えたダゴベルト・ペヒェ。

彼に強く感化されとみられる上野リチは、1932年に解散したこの工房晩期における主要メンバーの一人だったとも言えます。

現在京近美に残されている彼女のコレクションは、20世紀デザイン史を考える上で非常に貴重なものと言えると思います。

(なおダゴベルト・ペヒェに関しては、2011年10月、パナソニック留美術館で開催された「ウィーン工房 1903-1932」展の図録を参照しました)

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