幸野楳嶺 最後の大仕事

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大谷大学博物館2021年度特別展 東本願寺と京都画壇

 ■2021年11月2日〜12月18日

 

近代京都画壇に関する文書を読んでいると、具体的な代表作の絵面はすぐイメージできないのに、名前だけはよく目にする人がいます。

幸野楳嶺(1844-1895)。

四条派の本流を受け継いだ明治京都画壇の巨人です。
もちろん、作品自体も高い評価を受けてはいて、京都だけではなく、東京国立博物館の常設近代画コーナーでもしばしば彼の作品は展示されています。
京都画壇、そして近代日本画史上において欠くことのできない存在。

ただ、楳嶺の偉大さは作品そのものにもまして、菊池芳文、谷口香嶠、竹内栖鳳、都路華香、川合玉堂上村松園と、錚々たる弟子たちを育てた教育者としての一面にあります。

 

そんな幸野楳嶺の偉業を象徴する作品が東本願寺にあります。
巨大な御影堂の奥を飾る障壁画の数々。
「紅白蓮池図(八功徳池図)」と呼ばれ、宗祖親鸞を祀る厨子を囲んで荘厳しています。

楳嶺がこの大仕事を東本願寺から依頼されたのは明治20年代の前半。
1864(元治元)年の大火で焼け落ちた御影堂再建事業の一環として発注されました。

東本願寺と京都画壇」展では、1890(明治23)年頃、楳嶺が描いた蓮池図の縮図が展示されています。

幸野楳嶺といえば、稠密な線によって描かれた非常に情報量の多い画風が特徴的ですが、この下絵では蓮のモチーフが比較的シンプルなスタイルで表されています。

これは焼失する前の絵がもっていた作風に近づけることを目的としていたためで、楳嶺は古式に迫るため、熱心に資料を集めていたのだそうです。
鶴澤探索が寛政度再建時に描いたとされる蓮池図縮図の丁寧な写を楳嶺は描いていて、これも展示されています。
楳嶺が相当な決意と準備でこの仕事に臨んでいたことが推察されます。

本画自体は1894(明治27)年に完成しますが、翌年に亡くなってしまう楳嶺自身の体力はこのとき既に限界をむかえていたとみられます。

大谷大学博物館の國賀由美子館長によると、「紅白蓮池図」の製作にあたっては、楳嶺の弟子たち、竹内栖鳳上村松園等、数多くの画家が師匠の大仕事を助けるべく筆を握ったのだそうです。

東本願寺御影堂を飾る大障壁画は、いわば、楳嶺ゆかりの京都画壇の人々が文字通り総力を結集して仕上げた近代日本画ということになります。

江戸時代、4回も焼け落ちた東本願寺
桃山以来の文物を伝え国宝で溢れかえる西本願寺に比べると、文化財という面では見劣りします。
しかしその分、御影堂、阿弥陀堂といった明治の伝統巨大建築(2019年・重要文化財指定)や、近代日本画の壮麗美が残されることになりました。
また、江戸期の再建にあたっても当時の京都画壇を代表する絵師たちが関与したことが記録に残っています。
本展では狩野派をはじめ、近世京都画壇に活躍した絵師たちの仕事も丁寧にトレースされていました。

 

そもそも東本願寺の堂宇がいつ焼失し再建されたのか、まとめておくと以下の通りです。
・1788(天明8)年、天明の大火により焼失。
→1798(寛政10)年、再建。
・1823(文政6)年、境内からの失火により焼失。
→1835(天保6)年、再建。
・1858(安政5)年、付近の火災に巻き込まれ焼失(これは同年4月に京都御所等を焼いた大火とは別で、6月、下京、諏訪町万寿寺あたりを火元として発生したもの)。
→1860(万延元)年、仮堂として再建。
・1864(元治元)年、禁門の変(蛤御門の変)で焼失。
→1895(明治28)年、再建。

 

1602(慶長7)年、徳川家康が、当時引退に追い込まれていた教如に烏丸六条の地所を寄進。
その2年後には御影堂・阿弥陀堂が完成し、実質的に東本願寺がその姿を現してきます。
ただ当初の規模は小さく、本格的に大規模な伽藍が整えられたのは1660年代を中心とした明暦・寛文度の造営によるといわれています。
17世紀から絵師集団とのつながりを持っていた東本願寺には京狩野の山楽、山雪の名品も多数あったはずですが、障壁画ゆえに火災の難を逃れることはできませんでした。

本展では19世紀中頃、京狩野を復活させた九代狩野永岳の作品が紹介されています。
この人の画風はとても面白く、「竹に亀図」(1838・天保9年)は、一見大きな岩が見えるのですが、取り合わされた竹や亀と大きさが釣り合いません。
遠近法が無視された上にそれぞれのモチーフの描画密度がアンバランスなので、どこに焦点を合わせて鑑賞したら良いのかわからなくなる不思議絵画に仕上がっています。
下記、京都新聞のサイト内で「竹に亀図」をみることができます。

特別展「東本願寺と京都画壇」 | 京都新聞アート&イベント情報サイト[ことしるべ]

 

展覧会のポスター等に採用されているのは円山応挙による「壮竹図」(1791・寛政3年)。
この裏面に描かれた「稚松図」ともども無駄が削ぎ落とされたスタイリッシュさが光る応挙晩年の名品です。

しかしこれは東本願寺本体に描かれたものではなく、岐阜別院で使用されていた襖絵。
東京・霞ヶ関にあった法主の隠居所「桜下亭」を京都の境内へ移築する際、組み合わせて設置されたのだそうです。

400年以上の歴史を持っているとはいえ、やはり御影堂・阿弥陀堂焼失によって失われた障壁画は多く、円山派の大作は別院からの伝来品が残っているに過ぎない。
東本願寺の苦しい文化財事情が伺えます。

とはいえ、そもそも応挙の襖絵自体、何度も大火に襲われた京都には類例が少なく、この絵は京都市登録有形文化財に指定されているそうです。

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本展では、火災と再建を繰り返してきた東本願寺の歴史に関わった絵師や画家たちを、画系図や年表等によってとても丁寧に解説しています。

とりわけ再建時に仕事を任された絵師名の記録(図録に詳録があります)からは、時代が下がるにつれて京狩野が勢いを失い、江戸から出向いてきた狩野派の支流である鶴澤派や、円山・四条派、原派等が台頭してくる近世京都画壇の動きが生々しく読めてきます。

幸野楳嶺と門人たちによる大仕事は、近世の絵師が描いた図柄の「写」から準備されていました。
東本願寺御影堂障壁画は、いわば、近世から近代にかけての京都画壇、その流れそのものが生み出した成果物ともいえそうです。

無料の小規模展ですが、とても密度の濃い内容だったと思います(事前予約制)。

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