正伝永源院の狩野山楽

 

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建仁寺の真北に位置する正伝永源院(しょうでんえいげんいん)は不思議な「磁場」を持ったお寺です。

普段は非公開寺院ですが、現在、京都市観光協会主催により特別公開(2022年1月8日〜3月18日)されていて、方丈室中を飾る狩野山楽の障壁画を間近で鑑賞することができます。

 

元々は「正伝院」と「永源庵」という二つの寺院。
いずれも建仁寺塔頭でした。
明治の神仏判然令によるインパクトを経て一つのお寺になるのですが、その歴史と経緯はかなり複雑です。


今の正伝永源院境内にあたる場所に元来あったのは「永源庵」の方です。

「永源庵」は14世紀中頃の創建で、現在の地、建仁寺の真北に移ってきたのは1398(応永5)年頃なのだそうです。
ちょうど足利義満による北山第(金閣)の造営がなされていた頃ということになります。
近世細川家につながる細川和泉上守護家の始祖、細川頼有(1332-1391)の子孫たちがこの「永源庵」に帰依したため、現在の正伝永源院境内には細川家歴代のお墓があり、元首相細川護煕が方丈に襖絵を描いています。


つまり現在の境内は細川家ゆかりの地所ということになります。

ところが、ここからが複雑なのですが、神仏判然令が発せられた当時、この「永源庵」は無住、つまり誰も管理する者がいないという状況にありました。

通例なら廃寺となって破却されるところを、大寺院建仁寺の真北に接する塔頭ということが幸いし、建物と地所は残されることになったのだそうです。


建物と土地、つまり器、フレームだけが残った「永源庵」。
そこに、やや不謹慎な言い方ですが、いわばコンテンツとして入ってきたのが「正伝院」です。

「正伝院」は鎌倉時代中期の創建。
つまり南北朝時代創建の「永源庵」よりも歴史は古いのですが、戦国時代頃にはかなり荒廃してしまっていたそうです。
その中興の祖とされているのが、織田有楽斎(1547-1622)。
有名な茶室「如庵」などが有楽斎の没後、「正伝院」に寄進され、彼ゆかりの文物がこの寺に残ることになりました。

現在の祇園甲部歌舞練場のあたりにあったという「正伝院」は、明治初期、無住ではなかったものの、すでに寺の力はかなり衰えていました。
「永源庵」と違い、建仁寺からやや離れた立地だったからでしょうか、建物と土地を京都府に明け渡すことになります。

そこで、当時無住となっていた近所の「永源庵」と一体化する道を選びます。
このとき「永源庵」は廃寺扱いになっていますから、企業合併で例えるならば、「正伝永源院」の存続会社は「正伝院」です。
しかし「永源庵」側、つまり細川家が寺名が消えることを憂慮したため、二寺の名前を合わせた「正伝永源院」として再出発することになりました。
歴史のある京都の寺院ではよくある類の話ですが、まあ、それにしても複雑です。

ともあれ、結果として明治に入り、織田有楽斎ゆかりの品々が一気に正伝永源院の中にもたらされることになりました。

ざっくりいえば、この時点で、正伝永源院は建物と土地、つまりフレームは細川家、襖絵などのコンテンツは織田有楽斎ゆかりの文物で構成された寺院となったわけです。

 

こういう複雑な経緯を一旦整理しないと、方丈室中を飾るこの寺院随一のお宝、狩野山楽による「蓮鷺図(れんろず)」がなぜここにあるのか、わけがわからなくなります。

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狩野山楽「蓮鷺図」(部分・ポスターより)

 

京狩野初代、狩野山楽(1559-1635)は、よく知られているように豊臣家との関係が深かったため、徳川家に政権が移るとそれまで順風だった絵師人生が一気に暗転した人です。
一時は命を狙われ、松花堂昭乗のもとに身を寄せて難を逃れるなど、非常にリスキーな立場にもおかれていました。

織田有楽斎は豊臣、徳川の間を調停する役を担っていたこともあり、山楽の立場に理解を示しこの絵師をフォローしていたようです。
そこでお礼にと「正伝院」のために山楽が描いた襖絵が「蓮鷺図」。
なお、「正伝院」には他に山楽筆の襖絵として「狩猟図」が描かれていましたが、こちらは現在京都国立博物館永青文庫(細川家)、個人コレクションに分割されて伝わっています。

山楽は有楽斎没後に彼の肖像画も描いていますから、九条幸家徳川秀忠ともども彼にとっての重要な後ろ盾としてリスペクトしていたものと思われます。


「蓮鷺図」には山楽の代表作、たとえば妙心寺の龍虎図に見られる大胆な構図や、大覚寺襖絵のような華麗さは見られません。
しかし贅沢に使われた緑青の色彩美と穏やかな蓮の様式美が堪能できる名品だと思います。
東側の襖から春、夏、秋、冬と蓮の景色が移ろっていきます。
時代に翻弄され、すでに達観の境地にあったかもしれない山楽の心情が写されているとみてしまうとやや文学的バイアスがかかりすぎでしょうか。

実際に寺の襖として使われてきたため、かなり剥落もみられますが、400年前に描かれた障壁画とは思えないくらい、色鮮やかに図像が残っています。
普段は非公開であることが幸いしているのかもしれません。


方丈の中心にあって、庭園を正面に眺める位置にはめ込まれている山楽の襖絵は、現在、正伝永源院の顔のような存在であり、いかにも昔からここに描かれていたように感じられてきます。

しかし、時代を遡って頭を整理すると、明治以前、この襖はここにあったものではないことに気がつきます。

この絵は本来、花見小路四条を下がったところ、現在の正伝永源院からはやや北東に位置していた、在りし日の「正伝院」を飾っていた障壁画。
当時の様子は、現状とは全く違っていたと思われます。

かつての「永源庵」がもっていた不思議な「磁場」によって、今はぴたりと山楽の襖絵がここに抱え込まれてしまったかのようです。

 

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如庵(復元された写)

他方、コンテンツとしていくつかの寺宝は正伝永源院に継承されたものの、「正伝院」のフレーム、つまり建物類は散り散りになります。
有楽斎作の茶室「如庵」も愛知の犬山に移されました。

ところが平成に入り、正伝永源院境内に「如庵」の写が復元されます。
まるでこの寺が再び磁力を発揮し始めたかのように。

復元如庵にかかる額を揮毫したのは、細川元首相の父、永青文庫理事長もつとめた細川護貞です。

細川護煕の襖絵に加え、有楽斎の茶室には細川家末裔の筆による額が掲げられているわけですから、もはや正伝永源院における、フレーム(永源庵・細川家)+コンテンツ(正伝院・織田有楽斎)の関係は渾然一体の観を呈しているともいえます。

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如庵内部(復元された写)

 

そしてさらに、正伝永源院は磁力を発揮しつづます。
つい最近、昨年2021年秋、新たな「正伝院」ゆかりの遺品を引き寄せたことで話題になりました。

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正伝永源庵 庭園と武野紹鴎供養塔

藤田観光が経営していた大阪・網島町の結婚式場「太閤閣」。
昨年、ここが売却されることが発表されました。

太閤閣の敷地に立っていた武野紹鴎を供養する塔は、今井宗久が堺に建立、その後、織田有楽斎が「正伝院」に移したとの記録が残っているそうです。

明治期、「正伝院」の建物や付属物が売却された際、武野紹鴎供養塔は藤田財閥を率いていた藤田平太郎が買取り、同家の所有となっていました。
昨年の太閤閣売却に伴って、この塔は「正伝院」の流れをくむ正伝永源院に戻ってくることになったのだそうです。

報道によれば太閤閣地所の買主は、ある宗教法人。
この団体はその宗旨からみて他宗である臨済宗ゆかりの遺産を、買い取った敷地にそのまま残すわけにはいかなかったのでしょう。

現在、正伝永源院庭園にはあたかも以前からあったような佇まいで太閤閣から移された紹鴎供養の塔が立っています。

しかし、もう一度、頭を整理する必要があります。
この塔が本来戻るべきだった場所は今はなき「正伝院」の旧地であり、「永源庵」から続くこの庭園ではありません。
とても、ややこしい。

 

無住の寺として存続が危ぶまれていた「永源庵」が、正伝永源院となってさまざまな宝を引き寄せた結果、今や数ある建仁寺塔頭の中でも異色の魅力を放つ存在になっています。

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