亀岡末吉 二つの勅使門

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仁和寺境内の南西、仁王門を入ってすぐ左手のエリアには宸殿や二つの書院といった御殿風の建物が立ち並んでいます。

現在、京都市観光協会主催による特別公開企画の一環で、宸殿の南に広がる庭園に臨時の木板が敷かれ、普段は立ち入ることができない場所から御殿等を眺めることができます。
(2022年1月8日〜3月18日)

なお、悪天の場合、あるいは雨や雪があがっていても板が濡れていると立ち入ることができなくなります(御殿エリアは靴を脱いで見学する必要があるため)。

また、「黒書院」は現在修復工事のため見学できず、代わりに宝物館で、室内を飾る堂本印象の襖絵が展示されています。

 

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亀岡末吉 仁和寺皇族門

宸殿を囲む塀には勅使門と皇族門、二つの門が設けられ、皇室と関わりが深いこの寺らしい典雅な雰囲気を醸し出しています。

 

応仁の乱で灰燼に帰した仁和寺は江戸時代初期、徳川家光の支援によって主要な堂宇が再建されています。

しかし御殿エリアは1887(明治20)年、火災により全焼。

その再建を企図したのが小松宮彰仁親王です。

かつて仁和寺門跡となっていた人物で、そもそもその宮号仁和寺エリアの旧名、小松郷に因んでいます。

親王によって1906(明治39)年、復興計画が起こされ、1909(明治42)年11月に着工、1914(大正3)4月に宸殿、霊明殿、勅使門などの再建が完了しました。

つまり、仁和寺の拝観エリアに入ってすぐ目にする景色は、平安でも江戸でもなく、明治近代以降の建築群です。

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亀岡末吉 仁和寺勅使門

その明治再建にあたり、宸殿や門の設計を担当した人物が亀岡末吉(1865-1922)です。

不思議な経歴を持った建築家だと思います。

 

前橋藩士の家に生まれた人ですが、開校して間もない東京美術学校に進み、日本画を学んでいます。

ところが卒業後、画家になることはせず、内務省で古美術調査の仕事に従事。

1907(明治40)年以降は京都府滋賀県の技師として古建築の修復などを手がけることになります。

亀岡が仁和寺御殿エリア再建の仕事を任されたのは、小松宮による復興計画指図の一年後、40歳代前半にあたることになります。

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南庭から見た仁和寺勅使門

今回の特別公開では、彼の設計による勅使門を庭の内側からじっくり鑑賞することができます。

後唐破風左右入母屋造の檜皮葺四脚門。

国の登録有形文化財です。

とてつもなく繊細かつ装飾的な意匠が施されています。

左右対称に翼を広げる鳳凰

狭い虹梁上の空間を蟇股を含んで隙間なく埋め尽くす植物文様のうねり。

他方、桟唐戸の透かし部分は非常に細い木枠で表されていて、スタイリッシュな美観をももっています。

バロックアール・ヌーヴォーを掛け合わせたような濃密なデザインに圧倒されます。

しかし、全体としてはほとんど「西洋」的な雰囲気を感じさせません。

亀岡が調査や修復によって手や眼に存分に染み込ませた古建築の様式感によるものなのでしょう。

複雑な割に平面的デザインが多い印象があり、そこが独特の洗練された美観につながっています。

この人は日本画を学んでいた建築家でもありました。

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仁和寺勅使門の装飾

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あまりにも繊細な造りからか、ところどころ透かしの花菱模様に欠損が見えたりしますが、100年以上経った木造建築物としてはかなり良好な状態を保っています。

亀岡はいわば意匠家であり、実際この装飾を彫り上げたのは当然別の工人たちです。

しかし、その技術力を信じなければ、ここまで複雑豊穣、かつ洗練されたデザインを考案することは亀岡自身できなかったはずです。

明治超絶技巧の成果がくっきりと刻まれているように感じます。

 

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亀岡末吉 東本願寺 勅使門(菊門)

さて亀岡末吉はもう一つ、勅使門を設計しています。

 

東本願寺、「菊の門」の名前でも知られる勅使門です。

1910(明治43)年から翌1911(明治44)年にかけて再建されました(元の門は元治元年の大火で焼失)。

愛知の実業家で名鉄の社長も務めたことがある神野金之助の寄進によるものだそうです。

 

後唐破風左右切妻造りの四脚門。

その意匠はちょうど同じ時期に手がけていた仁和寺勅使門と共通し、あらゆる細部に徹底的な装飾が施されています。

さらに彩色の華麗さも加わっているためか、まさに和様バロックと言いたくなるような雰囲気。

しかしこの門も西洋風のデザインが用いられているように見えながら、全体としてみると、紛れもなく擬桃山様式の伝統和風建築の顔を烏丸通に向けて建っています。

 

見どころ満載の堂々たる傑作なのですが、東本願寺は、御影堂、御影堂門をはじめ、とにかく他のお堂や門があまりにも巨大なので、この立派な勅使門ですら控えめな存在に見えてきてしまい、足を止める人はまばらです。

 

寺の門としては異例なピンクっぽい彩色が施されているようにみえます。

しかし、亀岡末吉による設計当時のカラー図案(1997年開催「東本願寺両堂再建展」図録に掲載)を見ると、ピンクはほとんど見られず、全体として黒色でシックにまとめられていたことがわかります。

もともとこの門は漆の蝋色塗。

つまり全体としては本来、黒光りする姿だったと推測されます。

黒色の地に華麗な彩色装飾の桃山門。

これは、西本願寺の国宝「唐門」とまさに同様のスタイルです。

ひょっとすると東本願寺はこの勅使門再建に関し、「お西さん」の唐門を意識していたのかもしません。

 

なお余談ですが、西本願寺唐門はつい先日、長年の修復を終え、桃山当時の極彩色と「黒」を取り戻しています。

これは正真正銘の桃山バロックです。

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西本願寺 唐門(修復後)

今回特別公開されている仁和寺南庭からは、古建築の権威、近藤豊が東本願寺勅使門と並んで亀岡末吉の最高傑作と称賛した宸殿の外観も、いつもとは違った角度からたっぷり楽しむこともできます。

 

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亀岡末吉 仁和寺宸殿

 

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