王朝文化への憧れ-雅の系譜
■2022年3月20日〜5月15日(I期) 5月22日〜7月18日(II期)
■相国寺承天閣美術館
近世初期、後水尾院と関係を深くもった相国寺には天皇家、公家ゆかりの品々が多数所蔵されています。
今回の企画は、禅宗系の渋い作品を抑制し、この寺のもつ華やかな一面にフォーカスをあてた相国寺王朝文化コレクション展です。
承天閣美術館第1展示室の一番奥、再現茶室「夕佳亭」の向かい側に一際大きな展示空間があります。
このスペースは伊藤若冲が「動植綵絵」と共に相国寺に奉納した「釈迦三尊像」の巨大な画面を収めるために設計されたといわれていて、いわば、この美術館の「正面」、「メインディッシュ」が置かれる場所。
企画展においては、一番見どころとなる作品が展示されるコーナーということになります。
今回このスペースに展示されている作品は、佐竹本三十六歌仙断簡「源公忠」。
重要文化財です。
しかしこの絵巻断簡は相国寺に古くから伝わる作品ではありません。
有名な三十六歌仙絵巻の「切断」が行われた直後、「源公忠」を入手したのは、藤田財閥、藤田伝三郎の三男、藤田彦三郎でした。
藤田一族は伝三郎の後も、長男平太郎をはじめ美術品の収集に熱中。
今にみる藤田美術館のコレクションが築かれることになります。
彦三郎もかなりの資金を投入していたとみられます。
しかし、昭和恐慌で役員に名を連ねていた藤田銀行の経営が行き詰まるなど、手元が苦しくなった彦三郎はこの作品を手放すことになります。
次に入手した人物は、大原美術館創業者、倉敷紡績社長の大原孫三郎でした。
ところが「源公忠」は大原美術館コレクションに留まることができず、戦後、大阪の実業家、萬野裕昭が買取り、彼が開いた私設美術館「萬野美術館」に収蔵されることになりました。
萬野が亡くなると、経営維持が困難となった萬野美術館は閉館を余儀なくされます。
その際、多くの作品が相国寺に寄贈されることになりました。
このとき旧萬野美術館からもたらされた円山応挙の傑作をはじめとする作品群の中に「源公忠」も含まれていたのです。
旧萬野コレクションの収蔵は2004年。
14世紀末に創建された相国寺の歴史からみれば、つい最近のことです。
2019年秋、京都国立博物館が各地に散らばっていた佐竹本三十六歌仙絵巻断簡の多くをその数奇なエピソードを含めてまとめて紹介(「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」展)したことで、メディアが取り上げ話題になって以降、この絵巻断簡への一般的な注目度が以前よりも一層高くなったような気がします。
相国寺伝来の寺宝ではない「源公忠」が今回の企画展で承天閣美術館の最重要スペースに展示された背景には近年の「佐竹本人気」が影響しているのかもしれません。
それはともかく、気品を漂わせた公忠像は、やはり名品です。
じっくり堪能することができました。
相国寺と後水尾院(1596-1680)を結びつけていたのは、第九十五世鳳林承章(1593-1668)です。
この人はもともと勧修寺家の出身。
鳳林承章の叔母である新上東門院勧修寺晴子は後水尾天皇の祖父にあたる誠仁親王(正親町天皇第5皇子・陽光院)の女房で、後陽成天皇を産んでいます。
つまり外戚として血筋でつながる関係にありました。
(本展では後水尾院を中心とした家系図が補足説明資料として配布されています。非常に参考になりました。)
両者は和漢連句を残すなど気心の知れた間柄であったことが展示されている文書類から伝わってきます。
前任ともいえる、豊臣・徳川両政権下で活躍した政僧、相国寺第九十二世西笑承兌とは違い、鳳林承章は武家政権とは一定の距離を保った人です。
結果として後水尾院を中心とした当時の宮廷文化が相国寺にもたらされることになりました。
後水尾院を描いた肖像画はいくつかありますが、一番有名なものは宮内庁書陵部が所蔵する尾形光琳による一幅でしょうか。
相国寺には後西天皇の子、つまり後水尾院からみれば孫にあたる有栖川宮幸仁親王が描いた後水尾天皇像が伝わっています。
1699(元禄12)年に描かれたとされていますから、当然、後水尾院はすでにこの世にいません。
幸仁親王は1656(明暦2)年の生まれ。
生前の院の姿を実見していたと想定されます。
これはいわば、追想の帝王像です。
記憶から想像されたイメージとはいえ、いくつか伝わる後水尾院の肖像画に共通した特徴的な容貌がしっかり捉えられています。
院は近世初頭、宮廷文化の頂点にいたわけですが、幕府との軋轢や修学院離宮造営の壮大なプランから類推されるように、一筋縄ではいかない複雑なキャラクターをもっていた人です。
その風貌からは、雅やかな宮廷人というより、老獪なフィクサーという雰囲気が漂います。
ある程度理想化されたり、様式化されることが多い天皇像ですが、後水尾天皇に関してはかなり本来の姿が写されているのではないかと感じます。
複数の肖像画が、そのクセのありそうなキャラクターを正直に描きこんでいますから、その分、描かれた面相再現の信憑性も高くなります。
有栖川宮幸仁親王は絵心があった人らしく、後水尾院像の他に達磨像も描いていて、展示作品からは、いかにも生真面目そうな人柄が伝わる筆致が感じられます。
孫に描かれた後水尾院の姿は、光琳画などより少し整えられているようにも見えました。
なお幸仁親王はこの像を描いたとされる年に43歳で亡くなっています。
前後期で展示品が複数入れ替わります。
「源公忠」は前期のみですが、代わって初夏からはじまる後期では同じく萬野美術館旧蔵の傑作である俵屋宗達「蔦の細道図屏風」が登場する予定です。