ギイ・ブルダン Guy Bourdin The Absurd and The Sublime
■2022年4月9日〜5月8日
■京都文化博物館 別館
会場となっている文博以外にも、京都駅前や大丸京都店の入口にギイ・ブルダンによる真っ赤な爪と唇の写真が大きく展示されています。
今年のKYOTOGRAPHIEの、いわば「顔」的な扱いとなっているブルダンの写真ですが、トライポフォビアっ気のある人にはちょっと気持ち悪い図像かもしれません。
不快さと官能美を大胆に組み合わせて強烈に訴求してくる一枚。
そういう意味ではこの写真家を代表する作品だと思います。
この企画は、昨年9月から10月にかけて、銀座のシャネル・ネクサス・ホールで開催された「ギイ・ブルダン展 The Absurd and The Sublime」の巡回展です。
銀座での展示を観てはいませんが、CHANEL NEXUS HALLが公開している会場風景を見ると、白を基調とした比較的シンプルでフラットな空間構成をとっていたようにみえます。
京都グラフィー展では、展示の仕様が銀座とは大きく異なっています。
おおうち おさむ によって文博別館内に組まれた円と半円を組み合わせたカラフルな展示空間はぐるぐると螺旋を描くような壁面を作り出しながら、ところどころ「隙間」をあえて開けることによって壁の向こうに展示されている写真がちらりと姿をみせる仕掛け。
まるでブルダン自身の作品がみせる「隠蔽の色気」そのものを実体化しているような効果をあげているように感じられました。
ギイ・ブルダン(Guy Bourdin 1928-1991)は、20世紀ファッションフォト史上の巨人とされていますけれど、例えば同業であったヘルムート・ニュートンに比べると日本での紹介機会は少なく、2006年に東京都写真美術館が開催した回顧展以降、目立った個別の企画はないように思えます。
8歳くらい年上なのにニュートンはブルダンより長生きして2004年まで活躍していましたから、もちろん単純な比較はできませんが、大小の作品展を積極的に許容したニュートンに対し、自身の写真を「作品化」して展示することに拒絶反応を示していたというブルダンの姿勢自体が、個展機会の少なさに影響しているのかもしれません。
ところで、ブルダンというと必ずといっていいほどマン・レイとの関係が指摘されます。
実際、ブルダンは1951年、この年ニューヨークからパリに戻ったばかりのマン・レイをまるで待ち伏せしていたかのように弟子入りしています。
しかし後年、マン・レイのアシスタントを務めるリュシアン・トレイヤールほど師匠と密接な関係をもっていたようではないように感じます。
確かに初期のモノクロ写真などをみると、一見してシュルレアリスム、マン・レイの雰囲気と共通したものを感じますが、カラー以降のVOGUE時代になると、ちょっと様子が違ってきています。
むしろ、バルテュスが描いた少女の絵、例えば、バタイユの娘ローランスをモデルにした「猫と裸婦」なんかにみられる、意味不明な「のけぞり」の構図などは、そっくりブルダンの写真にコピーされているようにも思えます。
ブルダンにバルテュス的な少女趣味はなかったと思われますが、バルテュス絵画がもっている質感や色彩感覚とブルダン写真との共通性が今回の特集展示で何となく垣間見えました。
1991年に亡くなったブルダンにとってみると、昨年は没後30年の記念イヤーだったことになります。
ブルダンのご子息は父の作品紹介に前向きなようですから、写真家個人の意思は「展覧会拒否」だったとしても、生誕100年の2028年あたりにはそろそろ大規模な全貌回顧展をどこかが企画しても許されるような気がします。
随分と気が長い話ですけれども。