孤篷庵 小堀遠州が見た「西陽」

 

 

大徳寺塔頭 孤篷庵が約7年ぶりに公開されました(2022年5月24日〜6月12日)。

2011年、2014年と比較的短いスパンで公開されていましたから、今回はやや久しぶりの門戸開放ということになります。

 

もう随分と昔のことですけれど、ここに初めて来たとき、季節はたしか冬、曇った寒空が大徳寺一帯を覆っていたように記憶しています。

名高い「忘筌」の茶室はモノトーンの陰影を帯び、本当にこれが江戸時代に造られた建築物なのか、とても信じられないくらいモダンなその様相を前に、寒さと感動で身体が凍りついたことを覚えています。

 

今回は初夏、京都市内は30度をうかがうという暑さの中での見学となりました。

15分きざみで観客をまとめて案内する仕組み。

タイミングが合わないと門前でちょっと待たされます。

7年前は行列もできたそうですが、平日の昼下がり、10数名程度に自然と客がまとまりストレスなく境内に入ることができました。

 

ここに来る時は荷物をできるだけ持たない方が良いと思います。

探幽筆の襖絵などがあちこちに飾られています。

傷をつけたら大変です。

入口近くで手荷物を預ける必要がありますから、スマートに出入りするなら、手ぶらが一番だと思います。

なお門の中に入ったら、写真撮影はNGとなります。

ガイドさんに従い、約40分。

たっぷり本堂、忘筌、直入軒と、一通り寺内を堪能することができました。

 

陽光の下、緑が映える孤篷庵を観るのは初めてでした。

結構、色彩がある、にぎやかな庭です。

方丈(本堂)前の庭には赤土が敷かれています。

曇天の冬景色ではあまり感じられなかった独特の色彩感覚。

琵琶湖の水平線に見立てたという遠州流のまっすぐなトピアリーが見られます。

しかし、ここは本来、南に位置する船岡山を文字通り「舟」にみたてた借景庭園。

大木に遮られた現在の景色は小堀遠州が想定していたイメージとは全く違っていることに留意する必要はありそうです。

 

方丈に描かれている松や花鳥の襖絵は狩野探信(探幽の三男)によるものと案内係の方から説明を受けました。

孤篷庵が現在の場所に建てられたのは1643(寛永20)年。

150年後の1793(寛政5)年に焼失。

その約4年後、松平不昧等の支援によって再建されています。

 

探信は1653(承応2)年に生まれ1718(享保3)年に没していますから、現在みられる襖絵は当然に小堀遠州の好みで描かれたものではありません。

様式性を丁寧に守った図像が格式と近世前期らしい美観を残していて素晴らしい絵画なのですが、一番の見どころと思われる室中東側の間が公開されていなかったのは残念。

その代わり「忘筌」や、遠州のプライベート空間である「直入軒」内に描かれた狩野探幽松花堂昭乗の水墨は間近で鑑賞することができます。

探幽の障壁画は本当にうっすらとしか残っていません。

しかし、そこがまた妙に「ありがたみ」を感じさせるところがあって、400年後の鑑賞者にほのかな感動を与えてくれます。

 

よく晴れた日の午後に「忘筌席」をあらためて鑑賞して、気がついた、というか妄想したことがあります。

なぜ、この茶室は「西向き」なのか、ということについて、です。

 

一般的に茶室では避けられることが多い、西陽の容赦ない光。

忘筌はまさにそこを逆手にとって、上半分だけ障子を仕込み、下半分に涼しげな景色を嵌め込む工夫がこらされているわけですが、そもそも西日を嫌うなら、もっと適当な場所に茶室を作る、あるいは主な採光面を西以外としたレイアウトを採用すれば良い話でもあります。

実際、同じ孤篷庵内に遠州自身が茶を楽しむために造った直入軒の茶室「山雲床」は北側に窓を開き、龍光院秘仏的国宝茶室「密庵」のスタイルを写していると伝えられています。

 

遠州は、西日の制御が難しい位置に、なぜあえて「忘筌」を設え、客をもてなそうと考えたのでしょうか。

 

妄想が読み解いたその秘密は、主人である小堀遠州が座った席の位置にあります。

忘筌が生み出すモダンな美しい景観を茶会の席で最も楽しむことができる場所。

それは茶席の一番奥、主人が座る台目席です。

しかし、これは客をもてなすという茶の湯の精神から見れば全くナンセンスな構図です。

一番美味しいその景色は、客ではなく、主人が味わうことになってしまうわけですから。

これを遠州らしいアーティストとしてのわがまま、と見てしまうと、それはちょっと近代により過ぎた発想かもしれません。

 

遠州が、台目席から眺めていたであろう、西日に照らされた忘筌の入り口。

この茶人はそこに「西方浄土」を見ていたのではないでしょうか。

とすれば、西から入ってくる茶会の客はまさに、阿弥陀如来の使い、つまり「菩薩」ということができます。

台目にすわることが、景色を眺めることではなく、浄土に向き合うことそのものだったとすれば、なぜ「忘筌席」のレイアウトがこのようになっているのか、しっくり理解できるように感じられるのです。

あえて「西陽の席」が必要だったのです。

こんな妄想をしてみました。

 

もちろん、大徳寺臨済宗ですから、阿弥陀如来の存在感は薄く、実際、孤篷庵の本尊は釈迦如来です。

この宗派に深く帰依したとみられる小堀遠州西方浄土の教主を寺内であからさまに尊崇するとは思えません。

しかし、だからこそ、茶室という抽象空間の中に、浄土の思想をそれとなく仕込んだとも空想できます。

 

それと、庭に使われている「赤土」。

琵琶湖を模した遠州の工夫と伝えられますが、湖であれば、普通、白砂ではないかとも思えます。

しかし、その湖面が夕焼け、つまり西陽に照らされていると想像すると、なぜこの色なのか、得心できるのです。

 

孤篷庵は、なにより、遠州が終の住処、自身の菩提寺となることを想定して建立した寺院です。

直接的な浄土信仰をあらわさない代わりに、都度の茶会でもてなす客を阿弥陀の使いとして遇する。

終期を悟った万能の茶人らしい思想がここ孤篷庵には体現されているように感じられました。

念の為、繰り返しますが、以上は、妄想、です。

 

忘筌席(ポスターより)