エリック・ロメール「四季の物語」

マーメイドフィルムの主催によるロメール特集「四季の物語」デジタル・リマスター版上映が各地のミニシアターで開催されています。

4本、連続鑑賞してみました。

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「四季の物語」となっていますが、4本の制作時期は季節の遷移とほぼ関係はなくて、以下の通りとなっています。

1989年「春のソナタ」、1991年「冬物語」、1996年「夏物語」、1997年「恋の秋」。

 

春のソナタ」「恋の秋」と付けられた邦題はややマーケティングを意識しています。

本来はシンプルに「春の物語」(Conte de printemps)・「冬の物語」(Conte d'hiver)・「夏の物語」(Conte d'été)・「秋の物語」(Conte d'automne)。

ソナタ」も「恋」も原題とは関係ありません。

また「冬物語」はシェイクスピアの作品と関係があることからこんな邦題がつけられたのでしょう。

それにつられて「夏物語」ということになったようです。

特に「春のソナタ」はベルイマンの「秋のソナタ」に当然にかこつけられているわけで、今このタイトルをみるとかなり恥ずかしい感じを受けたりもします。

それはともかく、いずれの作品にも冒頭、"contes des quatre saisons"とクレジットが明示されますから、4作品がはじめから四部作として構想されていることがわかります。

 

4作品、結局、全部主題は「恋愛」です。

しかも、それぞれにかなり「こじらせた」人たちが登場するという点でも共通点が見られます。

しかし、不思議にどの作品からも、陰湿さ、じめじめとした暗さがほとんど感じられません。

ロメールらしいとしか言いようがない、「軽さ」と「深み」が奇跡のように両立している4本です。

 

リマスター処理によって、これもロメール作品を特徴づけている、色と光、陰影の美しさが向上し、画面の奥行き感が増しています。

特に季節の移ろいが意識されたこの四部作では高い効果を発揮したといえそうです。

 

俳優の重複はなく、4作に連続性は全くありません。

ただ、いくつか共通した個別要素も見受けられます。

 

例えば、「春」と「秋」にはそれぞれ「哲学の高校教師」が登場。

「冬」の冒頭、物語の起点となる重要な場所として登場するブルターニュ地方の海岸風景は、「夏」では全体の舞台そのものとなっています。

その他、ロメール独特の「好み」「手癖」のような要素が共通して随所に出現するので、ストーリーとして不連続の関係にはありますが、4作に共通したある種の統一感が生じているようにも感じられました。

 

ハッピーエンドの物語を全て「喜劇」と言ってしまうならば、「夏物語」を除く3作はいずれも喜劇です。

ただ、主人公の青年(メルヴィル・プポー)が、結局、どの女性との思いも果たせず退場していく「夏物語」にしても、そこに悲劇の要素はほとんどなく、まさに一夏のほろ苦い青春エピソードとして爽快感を残して終わりますから、ある意味ハッピーエンドと言えなくもありません。

というよりも、この作品が一番笑えるという意味では最も喜劇らしいともいえます。

「夏」については、「海辺のポーリーヌ」との関連が指摘されるようですが、「二兎を追う者は一兎も得ず」という教訓話シリーズとして、むしろ「満月の夜」に近い作品といえるかもしれません(「夏」では二兎どころから三兎ですけれども)。

 

時に哲学、宗教といった小難しい議論をくぐり抜けつつ、主人公たちはほとんど独自の恋愛観を譲ろうとせず、呆れ果てるくらい身勝手に振る舞っているのですが、最終的には、おさまるところにおさまっていきます。

 

しかし、四部作の最後に撮られた一本、「秋の物語」はちょっと怖い作品でもあります。

独り身をこじらせている中年女性マガリ(ベアトリス・ロマン)。

ガリになりすまし、新聞広告で交際相手を募集し彼女とくっつけようと画策する親友のイザベル(マリー・リヴィエール)。

めでたく愛のキューピットとしてのイザベルの企みは成功し、最終的にマガリはある男性と親しくなるきっかけをつかみ、物語は大団円を迎えて終わります。

 

しかし、イザベルは純粋に友人のために尽くした愛のキューピットだったのか。

実は、広告に引っかかってきた男性もまんざらではなく、マガリに紹介することなく、あわよくばそのままイザベル自身が関係を持ち続けてしまう流れもあり得たのではないか。

そういう気配をロメールは実に自然に描き出しているので、それが自然であればあるほどある種の恐ろしさ、人間の業のようなものがチラチラと画面上に明滅します。

 

イザベルが店主となっている本屋には若い女性店員が雇われています。

普段は誰にでも愛想の良いイザベルが、この女性店員にだけは、ちょっとゾッとするくらい冷たい態度をとっていて、店員側もそれに気がついてかほとんど挨拶すら交わさない。

ひょっとすると、この若い女性店員はイザベルの旦那とデキている、あるいはその疑いをイザベルは抱いていて、夫にもう愛想をつかしつつあるような状況だったとしたら。

だから一見無謀ともいえる身代わり交際広告作戦を簡単に実行に移すことができたのではないか。

成り行き次第では自分が交際を始めてしまうことも視野に入れて。

映画の中ではそんな筋書きは明確には描かれておらず私の妄想にすぎませんが、最後の最後、ダンスパーティーの場面でイザベルが観客に向けて投げる意味ありげな視線には、いろんな「闇」が潜んでいそうで、結構、怖い。

 

春夏秋冬、じっくり見直すと、新しい発見がありそうです。