ピエル・パオロ・パゾリーニの生誕100年を記念し、今年は「テオレマ」や「王女メディア」のリマスター版が各地で上映されました。
他方、上映権が期限を迎える作品もあって、「奇跡の丘」と「アポロンの地獄」が日本最終上映と銘打たれ、池袋の新文芸坐などで公開されています。
「アポロンの地獄」(1967)を観てみました。
イタリア語の原題は" Edipo Re "。
すなわち、世界で最も有名な悲劇の一つ「オイディプス王」です。
映画の冒頭と最後に、現代を写したシーンが額縁のように嵌め込まれてはいます。
しかし、意外にも、本編とも言える中間部分は、ほぼソフォクレスの原作を忠実にたどっています。
アポロンから下される神託の内容が、物語の当事者たちにとってはまさに「地獄」ですから、邦題もあながち出鱈目とは言えません。
しかしパゾリーニはこの作品で、原作そのものを勝手に改変して別の話に仕立てているわけではありませんから、日本での上映タイトルも素直に「エディプス王」あるいは「エディポ・レ」で良かったのではないか、今となっては、そう思えます。
内容はほぼ原作通りです。
しかし、映像自体はパゾリーニ独特の世界に完全に組み替えられています。
ほとんど緑も水辺も登場しない、赤茶けた大地と乾いた空気が支配する本編の舞台は、後に撮られた「王女メディア」の世界とも繋がっているようです。
パゾリーニが創造した幻想の古代を視覚的に表現しているのは、モロッコのカスバと、地域や時代を超越したようなその奇妙な衣装群。
お馴染みの世界遺産が異教の城のような奇怪さを含みながら美しく舞台を彩っています。
台詞は刈り込まれ、多用されるアップ画像によって浮かび上がる登場人物たちの表情、仕草などで心層が描かれていく手法。
そもそもお話自体は誰もが知っているわけですから、くどくどしいセリフは不要ということでしょう。
ただ、例外的に饒舌なシーンがあります。
ティレシアス(ジュリアン・ベック)とオイディプス(フランコ・チッティ)が対峙する場面。
原作以上にこの盲目の予言者の存在が強調されているように感じます。
これは、映画の最後、現代のシーンに連携していく流れをつくるためにパゾリーニが仕掛けた演出といえそうです。
主演の王よりも魅力的な存在感を放っているのがイオカステを演じているシルヴァーナ・マンガーノ。
妖しさと気品を兼ね備えたその演技は圧巻で、この後、すぐ「テオレマ」でパゾリーニは彼女を再起用することになります。
ライオス王やその護衛兵等はあきらにパゾリーニ好みの俳優が演じていて、演技力というより顔そのもので選ばれているところがあります。
他方、ベルベルの人たちを起用したという民衆から放たれる体臭や気配は独特の異界化効果を生んでいて、「どこでもない古代」が出現しています。
面白い音楽の使われ方が示されている映画です。
オリジナルの楽曲はありません。
モーツァルトの弦楽四重奏曲「不協和音」の冒頭から、その「不協和」の部分だけが印象的に使用されます。
オイディプスがコリントスからテーバイに向かって荒野を歩き続ける場面では、舞楽「陵王」(管弦では「蘭陵王」)の序の部分が使われています。
謡曲の平家物語が使われた「王女メディア」では、あまりにも内容と音楽が乖離していたため、とてつもなく違和感が先行してしまいましたが、この映画では、不思議と「陵王」の音楽が、慣れてくると、画面とシンクロしていきます。
舞楽「当曲」部分を使わず、舞人が入場してくる「乱序」の音楽のみを採用したことが奏功しているのかもしれません。
ただ、「ケチャ」を使っているところはやはり今となっては陳腐感が漂って逆効果です。
監督自身の境界が反映されているとされる冒頭と最後にはめ込まれた現代の場面は、当然、パゾリーニのオリジナルです。
貴族の血を引くファシストの父親を持った影響もあり、戦後しばらく母と貧困世界に暮らしたという監督の世界観がどこまで反映されているのかはよくわかりませんでしたけど、ソフォクレスに最大限のリスペクトをもって制作された映画であることは、確かなようです。