黒田辰秋(1904-1982)の没後40年を記念し、現在、東京国立近代美術館の常設展エリアに彼のミニ特集コーナーが設けられています(2022年7月24日まで)。
コーナーの入り口に展示されている長椅子は、かつて、東近美本館の近所にあったレンガ造りの別館「工芸館」の2階、階段を上がった辺りのスペースに置かれていたものです。
旧近衛師団司令部庁舎のクラシカルな内装の中にしっくりなじんでいた欅造りのベンチ。
竹橋にあった当時は鑑賞者が直に座ってくつろぐことができました。
2020年、別館が「国立工芸館」として金沢に移転してからおそらく初めて東京で公開されているのではないでしょうか。
なお、この長椅子、国立工芸館では鑑賞者が立ち入ることができない「ラウンジ」(旧師団長室)と名付けられた空間に展示されていたことがあります(当然に座ることはできませんでした)。
今回の展示でも「座ってはいけないオーラ」が放たれていたので腰掛けはしませんでしたが、とても懐かしい椅子です。
特集展示ではこの長椅子を含めて13点が展示されています。
規模は小さいですが、おそらく東近美が所蔵するほぼ全ての黒田作品が集められているとみられます。
中には2021年、つい最近購入されたばかりの作品もあります。
「乾漆耀貝螺鈿食籠」がそれで、1974年、第21回日本伝統工芸展への出品作です。
東近美はすでに同じ年に製作された「耀貝螺鈿飾箱」を所蔵していて、これも併せて展示されています。
耳慣れない「耀貝」という素材は、メキシコに生息する鮑のことを指しています。
この呼び名は棟方志功が命名したのだそうです。
もともとボタンとして加工するために輸入されていた貝殻ですが、ボタン用としては脆くて使うことができない貝の中央部分に黒田は着目しました。
青から緑へと神秘的なグラデーションを美しく明滅させる独特の色彩美が素晴らしい工芸です。
黒田辰秋というと、必ず民藝運動との関わりが指摘されます。
実際、柳宗悦に心酔していた青田五良や、鈴木実と共に上加茂民藝協団を1927(昭和2)年に設立し、このムーヴメントに直接的に関与しています。
しかし、「用の美」を基底に質朴さを重んじた民藝の世界と、黒田の洗練された工芸術の間にはどこか相容れない断絶のようなものが感じられもします。
京都に生まれ終生そこに暮らした黒田辰秋。
有名な京大前「進々堂」の重厚なテーブルや、祇園の鍵善良房に納められた菓子器の数々など、京都でもお馴染みの作家ではあります。
特に鍵善は自前のギャラリーを祇園の路地裏に開設し、開館記念として黒田作品の紹介を行うなど積極的です。
黒田辰秋と鍵善良房 – ZENBI | ZENBI -鍵善良房- KAGIZEN ART MUSEUM 公式ウェブサイト
しかし、なんとなくではあるのですが、京都ではいまだに黒田がややアウトサイダー的な存在としてとらえられているようにも感じます。
理由は、彼の伝統を打ち破る先鋭的なセンスと新技法の探求姿勢にももちろんあるのでしょうけれど、それ以上に、この人が京都漆芸界における「分業体制」を完全否定したところにあるように思えます。
黒田が民藝との関わりの中で共感したものとは、「民藝風」のセンスそのものよりも、木工漆工の造り手として、素材選びからデザイン、仕上げまで、全てを一人で成し遂げるというその仕事の有様にあったのではないか、そんな風に考えています。
京都伝統の分業体制は、これはこれで洗練されたシステムであり、特に複雑多様な工程を必要とする漆芸では合理的な仕組みともいえるでしょう。
しかし、黒田が仕上げた作品を見ていると、これは分業ではとても無理ではないかと思わせる、その独自の作家性と飛び抜けた技術力の凄みが感じられます。
作家性も極度に洗練された高い技術力も、民藝の世界とはあまり相容れない要素です。
特定の師匠を持たなかった黒田辰秋は、民藝が愛した名も無い一工人の姿勢に拠り所を得ていたのかもしれません。
でも逆に、その作風に関しては、むしろ洗練と先進を両立させてきた京都文化のセンスに、やはりつながっていた人だったのではないでしょうか。
今回まとめて鑑賞し、そんな感想をもちました。
なお、来年2023年1月から5月にかけて、アサヒビール大山崎山荘美術館が「没後40年 黒田辰秋展」(仮)の開催を予定しているそうです。
京都での比較的大規模な黒田辰秋特集は、2017年、美術館「えき」KYOTOが開催した「京の至宝 黒田辰秋」展以来かもしれません。
とても楽しみです。