イングマール・ベルイマン 日本最終上映3作

 

イングマール・ベルイマン(1918-2007)の没後15年にあわせ、各地のミニシアターが特集を組んでいます。

2018年、現在休館中の恵比寿ガーデンシネマ他で、監督生誕100年を記念し、まとめて代表作が上映されたことがありました。

今回はそれより規模が縮小されていますが、大長編「ファニーとアレクサンデル」を含む6作品がラインナップされています。

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「魔術師」(1958)、「仮面/ペルソナ」(1966)、「叫びとささやき」(1977)を観てみました。

この3作は劇場での上映権が切れるみたいで、「日本最終」と注記されています。

 

「魔術師」と「仮面/ペルソナ」はモノクロ、「叫びとささやき」はカラーです。

いずれも驚くほどの映像美。
リマスター処理によってきめ細かい質感と、特にモノクロ作品における「黒」の深みがよく再現されています。

 

「魔術師」(Ansiktet) はまさにその「黒」の威力が発揮されている作品です。

真っ黒いかつらとつけ髭、全身黒のいでたちで魔術師に扮しているマックス・フォン・シドーが漂わせる妖しい美しさ(「フラッシュ・ゴードン」のミン皇帝はこのイメージとつながっていたのかもしれません)。

そして、その「黒」が取り払われてしまったときに露わになる一人の男の情けないまでの人間臭さ。

ホラーとコメディが表裏一体となって、ひっくり返り、交差しながら、ストーリーが展開していきます。

映像の詩情性だけではない、ベルイマン映画に見る「筋書き」の面白さが堪能できました。

タイトルの「魔術師」は、当然に物語の中心にいる奇術興行一座を指しているわけですが、どんでん返しが繰り返されるラストでは、監督自身がまさに「魔術師」になっているかのようです。

 

その解釈を巡って批評家たちを手こずらせてきたという難解作「仮面/ペルソナ」(Persona)。

一種のアート映画といった方が良いのかもしれません。

冒頭と最後に現れる目まぐるしい映像はほとんどシュルレアリスムの世界であり、この映画が作られた1960年代後半という時代を考えると、前衛めいた音楽とあわせて、アート映像として見た場合、実はさほど新しい手法とはいえない面もあります。

しかし、名匠スヴェン・ニクヴィストによってとらえられた映像は圧巻で、一場面一場面がそのまま写真芸術として成立しそうな美しさ。

その作品解釈についてベルイマンも映像中、ある程度、ヒントは出しています。

突然舞台上で言葉を失い、以後、会話ができなくなってメンタル面の治療を受けることになる女優(リヴ・ウルマン)が演じていた演目は「エレクトラ」です。

母(クリテムネストラ)に復讐する役を演じていたときに言葉を失ってしまう。

それは女優である彼女自身が息子を愛することができない状態とシンクロしてしまったからであり、他方、その女優を治療する看護師(ビビ・アンデーション)は堕胎した自らの過去を、まるで言葉を失った女優の身代わりになったかのように饒舌に語り出す。

冒頭と最後、超現実の世界で母を求める少年が二人の女性によって「見捨てられた存在」として彷徨います。

主観、人格が錯綜する女性二人の深層にあるのは、どうやら「母になり損ねたこと」のようなのですが、こうした一面的な解釈自体をはねつけてしまうような作品としての「強度」が感じられます。

 

「叫びとささやき」(Viskningar och rop) では「黒」に替わって「赤」が映像を支配します。

末期がんとみられる病いに苦しむ次女を看病する長女と三女、そして家政婦。

エルランド・ヨセフソンはじめ、男性俳優たちが個性的な演技で絡んでいきますが、ほとんど女性たちによって展開していく点で、「ペルソナ」と被ってくるところが感じられました。

中でもイングリット・チューリン演じる長女の複雑な性格表現の凄み。
ここでも怪演を見せつけてくれます。

極限までセリフが削られる中、アップで撮られた四人の女性たちの表情そのものがキャラクターと一体化して劇性を生み出し、これもニクヴィストによって撮られた「赤」の映像美に現れては溶けていく。

背景となっている19世紀風の豪華な館の効果もあいまって、この作品はからはまるで上質な油彩画が連続しているような印象を受けました。

なおオリジナルの音楽は作られず、ショパンの作品17-4、イ短調マズルカと、バッハの無伴奏チェロ組曲第5番サラバンドが印象的に使用されています。

 

 

 

ベルイマン映画音楽集