各地のミニシアターで開催された「シャンタル・アケルマン映画祭」。
「オルメイヤーの阿房宮」(La Folie Almayer 2011)を観てみました。
夜の川面とみられる情景に、「トリスタンとイゾルデ」の第1幕前奏曲冒頭(演奏はメータ指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団)が被るシーンから始まります。
危うさと美しさが混じり合ったこの映画を象徴するような冒頭シーンです。
原作はジョゼフ・コンラッド(Joseph Conrad 1857-1924)の同名小説です。
2000年にアケルマンがプルーストの『失われた時を求めて』第5,6篇にインスパイアされて発表した「囚われの女」が、原作からかなり自由にふるまっていたのに対し、この「オルメイヤーの阿房宮」では、コンラッドの筋書きが相応に尊重されています。
「囚われの女」でも主演を務めていたスタニスラス・メラール(Stanislas Merhar 1971-)がオルメイヤー役を演じています。
前作での透明感を帯びた美しい容貌を一変させ、やさぐれた中年男の狂気を全身で表現していて、特に最後に写されたアップ映像は、窪んだ眼から異様に鈍重な光を放ち、本当に撮影中の疲労で頭がおかしくなってしまったのではないかと思わせるほどの迫力。
興行的に成功というレベルには至らなかったらしい映画ですが、この俳優を代表する作品の一つといって良さそうです。
撮影場所は全編カンボジアです。
一攫千金の夢破れ、マレー人の妻と愛の全くない生活を送るオルメイヤーが暮らしているあばら屋は大河に面した湿地帯に佇んでいます。
膝下近くまで水に浸かりながら歩き回るシーンが連続します。
気の毒なくらいハードな撮影だったことが想像できます。
「囚われの女」でもそうでしたけれど、アケルマンはメラールという俳優をひどい目にあわせることを楽しんでいるようなところがあって、この「阿房宮」では、その趣向が全開しているようです。
監督によって虐げられ続けるメラールの狂気が一つの見どころですが、この映画の本当の主役は、舞台となった湿地帯そのもの、といえるかもしれません。
濁った水に、貧しくも夥しく繁茂する植物の群生。
アケルマンらしい長回しに加え、滑らかに水平方向に視点を動かしていくカメラは、カンボジアの水がもつ禍々しいまでの生命力をとらえていて、ビチャビチャと響く音も含め、「土台」としての大地を欠いた上での「風土」としての強さ、美しさが際立っています。
この映画に登場する二人だけの「白人」の内のもう一人、マルク・バルベ演じる「船長」が死の床に横たわるシーンでは、その「水」が室内に深く侵入し、ベッドを浮かしてしまう。
野望をもってこの地に挑んだヨーロッパ人の儚い終末を象徴していました。
さらに強く迫ってくるのが「湿気」の表現です。
登場人物たちは一様にじっとりと汗を皮膚に滲ませ、着ている服はいつもベトベトと薄汚れています。
湿度も気温も、もはやカンボジアの密林とさほど変わらないのではないかと思われる夏の日本で観ていると、眼を通して皮膚が映像に反応します。
約2時間の作品です。
冒頭の場面が最後の場面に連続して先んじていたり、出来事の順序が意図的にずらされていたりと、初期のころからアケルマンが得意としてきたとみられる映像手法が駆使されていますが、ストーリー性がかなり明確なので、難解さや実験性はさほど感じられません。
オルメイヤーの束縛から逃れていく、マレー人との混血である娘のニナの毅然とした美しさが際立てば際立つほど、本人も含めて登場人物全てが不幸になっていくという、かなり救いようがない映画です。
冒頭、そのニナによって、あやふやな音程とラテン語で歌われたモーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が、「ヨーロッパ」がこの地にもたらした悲劇への皮肉な鎮魂歌に聞こえてきます。