アケルマンとディエルマンのモダニズム

 

「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」(Jeanne Dielman, 23, quai du Commerce, 1080 Bruxelles  1975)。

シャンタル・アケルマンの代表作です。

 

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ブリュッセルに暮らす、ある未亡人の三日間が200分の時間をかけて描かれています。

会話も途絶えがちな、ティーンエイジャーの息子と二人暮らし。

コーヒーを沸かし、息子を送り出し、買い物をして、夕飯の下拵えをし、近所の乳児を一時預かり、自宅で中高年男性の相手をして生活費を稼ぎ、夕飯を作って息子の帰りを待つ。

食事をしたら息子と夜の散歩をして就寝。

 

徹底的にルーチン化した日常がほぼ固定されたカメラによる冷酷なアングルによって捉えられていきます。

ほとんどデルフィーヌ・セイリグ演じる女性の一人芝居に近い映画。

発表当時から、フェミニズム映画の傑作として評価されたのだそうです。

 

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しかし、この映画は、単に「フェミニズム」に回収されてしまうような作品ではないように感じます。

 

身体を売ることまでルーチン化してしまっている主人公の女性。

しかし、べつに家事を嫌々ながらしているわけではありません。

部屋の扉は開け放たれたままにされることはなく、きっちり動作のたびに閉められます。

電灯も執拗なまでにいちいちON/OFFをこまめに実行。

流れるように無駄のない家事のスタイルはリズムを刻んでいるようでもあり、見ようによっては心地よさそうにも感じられる。

アケルマンは、おそらく、この定型化した動きによって、家事に隷属させられた女性の姿を浮き彫りにしたかったのでしょう。

 

しかし、淡々と暮らしの流れを作っていく主人公の姿からは、通俗的な解釈にもとづく「主婦の一日」を超えた、近現代人一般の「日常性」、あるいは、「モダニズム世界に生きる人の典型」が、むしろ、見事に抽出されているように思えます。

 

モダニズムを特徴づける二つの大きな要素。

「合理性」と「秩序」。

この映画の前半、つまり1日目と2日目の半日までは、見事にこの二つの性質が女性の行動に現れています。

息子が学校に行っている時間に行われる売春の様子まで二日間でほとんど変化はなく、まるで「家事」の一種のようにこなされていきます。

無駄なく整えられた都会に住む一人の人間の生活。

アケルマンが、図らずも描いてしまっているのは、「女性」ではなく、「近現代人」の典型なのです。

この物語全体を女性の話から男性に置き換えることも、設定をちょっと工夫すれば可能だと思います。

単に家事に隷属している女性ではなく、「合理性と秩序」に日常ががっちりはまりこんで、それ自体をレゾンデートルとしてしまった「人」が、この映画の真の主人公です。

 

映画の後半は、そうした一見、「整えられた人」が、じわじわと崩壊していく姿が丹念にトレースされていきます。

そのきっかけとなるシーンが有名な「ジャガイモの皮を剥くデルフィーヌ・セイリグ」。

マッシュポテトの調理に失敗した、それだけのことが、「合理性と秩序」の薄皮に守備されてきた主人公の世界を綻ばせていきます。

 

もっとも、その伏線はジャガイモ調理の失敗以前にあるかもしれません。

1日目の夕食。

息子のシルヴァンは料理を食べ残し、心配した母は「具合でも悪いの?」と声をかけています。

その夜、就寝直前、シルヴァンは母に「好きでもない人と寝ることができるか」と唐突に尋ねています。

ひょっとするとシルヴァンは、この時点で、母が行なっている「ルーチン売春」の秘密を知ってしまっていたのかもしれません。

翌朝、彼は普段よりも多い金額の小遣いをせびっています。

「入金」があったことを知っていたとすれば、合点がいく行動です。

そして、2日目、母はジャガイモの茹で時間を誤ってしまうのです。

「知られたかも」という不安が、「ルーチン」を乱したということもできるわけです。

 

崩れかけはじめた「ルーチン」の防塁を、主人公ジャンヌは回復しようと努めます。

普段より遅い時間なのに、なんとしてもシルヴァンとの「夜の散歩」には出かける。

不味くなったポットのコーヒーを作り直してみる。

取れてしまった息子のジャケットのボタンを探して何軒も店を回る。

しかし、一度裂けはじめたモダニズムの皮膜は、彼女の意図に反してどんどん破れていきます。

そして、最後の一撃。

前夜に息子が語った「火のような痛み」(亡くなった夫が息子に教えた言葉)を、売春客からおそらく受けてしまった女性は、一気にカタストロフへと行動を移すことになります。

 

前作である「私、あなた、彼、彼女」でみられた長回しと固定された構図のスタイルをさらに洗練させていますが、「ジャンヌ・ディエルマン」を撮った段階で、まだアケルマンは25歳です。

この若さで、ヌーヴェル・ヴァーグの女神、デルフィーヌ・セイリグを徹底的に使い倒す胆力に圧倒されます。

 

"Jeanne Dielman"と"C.Anne Akerman"。

 

監督自身の名前が「女性」の名前にはめ込まれています。

例えようがない、この映画全体から漂う説得力の凄まじさを、タイトルが象徴しているかのようです。

 

凶行を終えて一人座りこんでいる女性をとらえた、長い長い、最後のシーン。

背景にはブリュッセルの騒音のみが聞こえますが、「日常が裂けた」この場面には、ハイデガーの高笑いが響くようでもあります。

制作年から時間が経つにつれ、その意味が歴史に涵養されていくような、圧倒的名画です。

 

シャンタル・アケルマン映画祭」での上映に感謝しています。