巨大画面で観たい「マルケータ・ラザロヴァー」

 

マルケータ・ラザロヴァー」(Marketa Lazarová, 1967)が渋谷のシアター・イメージフォーラム他、各地のミニシアターで上映されています。

 

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約2時間45分、とにかく「ホンモノ」感が圧倒的なモノクロ超大作です。

監督はフランチシェク・ヴラーチル(František Vláčil 1924-1999)。

 

チェコ本国での公開から55年が経過しています。

欧米では以前からかなり高い評価を受けていた作品らしいのですが、今回の上映が本邦劇場初公開です。

 

13世紀、中世ボヘミア王国の一地域を舞台に繰り広げられる、封建領主たちの争いが描かれた作品。

といってしまうと、なにやら教養系歴史大河映画のように感じられてきますが、実態は全く違います。

 

全編にわたって、大地の匂い、体臭、鳥や獣の視線といった生の感覚が無闇に横溢しつつ、詩的な美観が常に意識された先鋭な大絵巻ともいうべき映画です。

 

この映画の日本語訳では「貴族」として表記されていましたが、王権と対立する実質的な主役であるコズリークの一族は、風態からその生活スタイルまで、およそ西ヨーロッパ的な優雅さとはかけ離れています。

衣服はもっぱらボロボロの毛皮。

領主のコズリーク自身、動物の頭から剥ぎ取った帽子のようなものをつけ、一族郎党をいつも怒鳴りつけては威嚇しています。

ザクセンとつながるドイツ人貴族の登場人物だけが、それなりの服装をしていますが、ボヘミアの領主たちとその一族は一様にヴァナキュラーな匂いに包まれていて、とても貴人とは思えない振る舞いに終始。

一応、王から認められた地域領主という存在なので「貴族」と訳されているだけで、どう見てもコズリークの一族は中世ボヘミアの暴力集団、「コズリーク一家」です。

その一家と対峙し、王権に与して彼らを攻めたてる「ビール隊長」一派も、同じような暴力集団的存在であり、ここには、一般にイメージされる中世ヨーロッパの古風で典雅な世界は微塵もありません。

 

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そして、ボヘミアの川、沼、湿地。

春夏秋冬、大地が硬くなったり柔らかくなったり、凍結と融解をくりかえす中、身体全体が有機的に世界と一体化しているような連中が縦横無尽に駆け回る映像の凄み。

500数十日かけて撮影されたという現場の空気が、白と黒の世界だからこそ、むしろ、緻密、かつ、圧倒的存在感をもって画面から噴出してきます。

 

キリスト教に覆われる前の世界がもっていた、ある種の生命力というか、ヒリヒリするような生死の境界自体がもつ美しさ、官能がこの映画のテーマではないかと思います。

はじめは清楚な修道女に憧れていたマルケータが、最後にはその純白の世界を捨て、かつて自分を陵辱したコズリークの息子の死に目に会うため駆け出してしまう。

十分に世俗的な放浪修道士の滑稽さや、ヘナウの司教の偏狭さにも、監督のヴラーチルが「反キリスト教」のテイストをこの映画に仕込ませたかったことが明白に示されています。

 

ヴラーチルは、本来、ボヘミア王宮における王権に関わる場面も撮影するつもりだったそうです。

撮影中、すでに巨額な予算オーバーに陥ったため省略を余儀なくされたわけですが、撮影されていれば、「反キリスト」に加えて、おそらく、「反中央」といったもう一つのテーマが作品に加わったかもしれません。

プラハの春」が起こる1年前だったからこそ成立した、大長編です。

 

ズデニェク・リシュカによるモダン化されたグレゴリオ聖歌の異教感満点の音楽に加え、音響面で何より素晴らしいのは、訥々と語られるチェコ語の美しさ。

滋味深い言語という言い方が許されるとすれば、この映画ではそれが、十分、確認できると思います。

 

半世紀以上を経た日本公開を祝いつつ、上映に尽力された関係各位には感謝しかありません。

しかし、この作品はシネスコであり、シーン単位の情報量が尋常ではありません。

本来は大画面を持つ映画館でしっかり音響面も考慮しながら上映してほしい傑作だと思います。

なんとかならないものでしょうかね。

 

アンドレイ・ルブリョフ」や「七人の侍」と並ぶ傑作と宣伝文句にありますが、「マルケータ・ラザロヴァー」がもつ容赦ない生っぽさは類例がなかなか見出せません。

強いてあげるとすれば、深沢七郎の小説あたりでしょうか。