狩野山楽 二条城大広間四の間「松鷹図」

 

「松鷹 ~将軍の武勇を示す障壁画~」

■2022年7月14日〜9月11日
■二条城障壁画 展示収蔵館

 

2020年10月から11月にかけて東京国立博物館で開催された「桃山展」。

質量ともに圧倒的だった展示品群の最後を締め括っていたのが二条城から上野に運ばれた巨大な「松鷹図」でした。

www.tnm.jp

 

桃山芸術の終焉を象徴する名品として大団円的に選ばれていたわけですが、驚いたのは、その筆者が「狩野山楽」と断定されていたことです。

二条城二の丸御殿障壁画を代表するこの大画は、長らく「狩野探幽」の作とされていて、東博もかつてはその説に従っていました。

しかし、この東博自身主催の企画展では、二条城展示資料館側による近年の研究成果をあっさりと受け入れ、探幽説をとらず、正式に狩野山楽の筆によるものと認めた格好になっていたのです。

 

今年2022年夏の二条城障壁画展示収蔵館の原画公開では、この大広間四の間「松鷹図」が、探幽ではなく、山楽によって描かれたとするに至った経緯が、そのエビデンス作品とともに展示解説されています。

非常に興味深い内容でした。

nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp

 

大広間一の間から三の間の障壁画を描いたのは狩野探幽であることが確定しています。

1990年代、隣接する大広間四の間「松鷹図」に関し、一から三の間の画風と明かに異なっていることが指摘され、筆者は探幽ではなく、山楽ではないかとの説が示されました。

実際、言われてみれば、探幽による工芸品のような孔雀図と、四の間の勇壮な鷲鷹図が違うことは素人目にもわかります。

しかし、宮内庁書陵部が蔵する『二条御城御指図』には大広間障壁画全体の絵師として「探幽」と記録されていることから、史料を優先し、四の間も探幽筆ということにされてきた経緯にありました。

 

結局、2005年に開館した二条城展示収蔵館は、この山楽推定説を無視することはできず、四の間「松鷹図」については「狩野探幽または山楽」と、「両論併記」のスタンスをとっています。

 

実際、2015年同館が刊行した『二条城二の丸御殿障壁画ガイドブック』でもそのように表記されています。

しかしこの公式ガイドブック発行のわずか4年後、2019年、展示収蔵館は本作を「狩野山楽」単独の筆と確定し表記も変更。

翌年に開催された東博による「桃山展」では早速この判断を「有力説」として東博が取り入れたということになります。

 

山楽と判断する根拠の一つとなった作品が、今回、併せて展示されています。

大広間西廊下に設置されていた「杉戸絵」です。

探幽筆と確実視されるこの杉戸絵には、ちょうど四の間南側に描かれた鷹と同じポーズをとっている鷲が描かれています。

かつては、まさにこの「ポーズ」が同じであることから、四の間も探幽が描いたものとされていたのですが、細部を見ると、猛禽描写のスタイルそのものや、筆致自体に明かな相違が確認されたのだそうです。

 

筆者を特定する場合、すでに確定している基準作との類似点を研究することが一般的ですが、この「松鷹図」の場合は逆ということになります。

つまり、二つのほぼ「同形態=同一ポーズ」をとっている対象物(杉戸絵の鷲と障壁画の鷹)のディテールを比較することで、一方について「探幽ではない」ということをはっきりさせることができた、ということでしょう。

その上で、山楽の基準作である大覚寺や天球院の障屏画と松の描き方などを照合することで四の間「松鷹図」の筆者を狩野山楽と特定しています。

鮮やかな研究プロセスであり、成果だと思います。

山楽説を実質確定させた松本直子学芸員による丁寧な解説文(会場配布)がとても参考になりました。

 

なお、今回の展示ではこの杉戸絵とともに、修復を終えた四の間北側の松図も初公開されていて、ほぼこの「山楽の間」が実際に再現されています。

格調高さと優美さを特徴とした探幽の寛永狩野派スタイルとは違う、まさに「桃山の終焉」にふさわしい力強い山楽の世界が現出していました。

 

狩野山楽 二条城二の丸御殿大広間四の間「松鷹図」(南側・部分)