京都市観光協会の主催により、普段非公開となっている仁和寺「金堂」および「御影堂」の内部が公開されました(「京の夏の旅」2022年7月9日〜9月30日)。
境内の北辺に位置する金堂は、1613(慶長18)年に建造された内裏の紫宸殿を、寛永年間(1624〜1643)に移築したものとされています(仁和寺のHPより)。
( なお文化庁の説明では、「慶長十六年(一六一一)造営の御所の紫宸殿を寬永二十年に移建したもの」となっています。)
応仁・文明の乱で壊滅的な打撃を受けた仁和寺。
金堂は、五重塔建造等とともに、徳川家による再興プロジェクトの一環として移設されました。
国宝です。
1953(昭和28)年に指定されています。
それまでの建物が仁和寺に移築された以上、当然洛中の御所には新たに紫宸殿が造営されたはずです。
しかし、当時内裏となっていた土御門東洞院殿は火災で焼失していますから、皮肉なことに、結果として、この金堂が近世紫宸殿建築の最古例として今に残ることになりました。
江戸時代のごく初期、建築様式としては桃山時代の残影がまだ感じられても不思議ではないはずなのに、ここには派手な装飾や組物はほとんど見られません。
蔀戸をめぐらせ、垂木に三軒(みのき)が採用されるなど、古式に則り、格調高くまとめられた建造物です。
黒漆塗の蔀戸が丁寧にメンテナンスされていることもあってか、とても400年前の建物とは思えないくらいイキイキとした現役感があり、実際、毎朝ここでは勤行が行われているのだそうです。
金堂内部は本尊阿弥陀三尊像などを囲む内陣が設られ、仏画が壁面を荘厳するなど、当然仏教様式に改修されていますが、驚くのは建築全体としてのシンプルさです。
屋根板が張られていない舟底天井で、目立った肘木の類も見られません。
外観から受ける印象に比べ、内部はかなり広く感じられます。
仁和寺創建当時から残る国宝の阿弥陀三尊は、現在、霊宝館に収められていて、金堂には1644(寛永21)年、仏師運節が彫り出した像が安置されています。
これは貴重な平安時代の仏像を文化財保護を目的として江戸時代に取り替えた、というわけではなく、移築されたこの金堂の広さに対してそれまでの本尊が大きさとして釣り合わなくなったため、新造されたという事情によります。
金堂内部を実見すると、創建当時の本尊では、なるほど、空間を持て余してしまうことが想像できます。
しかし、安政期造営による現京都御所紫宸殿の巨大さと比べると、この近世初期建築のスケールはとても小さく感じられます。
内裏の中心的建造物、帝王の宮殿として見た場合、むしろ慎ましいといえるかもしれません。
さて、金堂内部の南西に位置するコーナーにやや小ぶりの梵鐘が吊るされています。
これは鋳金の大家、帝室技芸員、香取秀真(1874-1954)が1939(昭和14)年に製作した作品。
今回の内部公開で特にお目当てにしていたのは、この鐘でした。
かなり余白がとられた地に、龍や仏の図像がほどこされた朝鮮系の流れをくむ復古様式。
撞座が四方にあるのも非常に特徴的です。
押し付けがましい装飾は全くなく、抑制的で品格が最優先されている梵鐘ですが、細部をみるとそれぞれの図像はかなり緻密に造形されていることがわかります。
宮廷建築の流れをくむこの建物全体の雰囲気を意識したデザインなのかもしれません。
隅にこっそり置かれているので、気に留めていないと素通りしてしまうような地味な鐘です。
しかし、その完成度の高さは素晴らしく、本来なら美術館に収蔵されてもおかしくない特級の工芸と評価できる作品です。
今回初めて間近でじっくり鑑賞することができました。
堂内での撮影は禁止ですが、この梵鐘は外からでもうっすらその姿を捉えることができました。
一方、鐘楼を挟んで金堂の西に位置する「御影堂」の内部は、「京の夏の旅」企画では初公開となるのだそうです。
こちらは清涼殿の建材を移築したものだそうですが、寺院らしく瓦葺に改造された金堂に対し、檜皮葺の古様を残しています。
非常に優雅な曲線を持った宝形造の屋根が印象的です。
御影堂の内部には弘法大師空海の像を中心に寛平法皇(宇多天皇)、性信親王(三条天皇第四皇子)の彫像などが安置されています。
屋根裏を剥き出しにしていた金堂とは対照的に、御影堂のそれは稠密に組まれた折り上げ格天井で仕上げられています。
黒光しながら格式の高さを主張していました。
なお、境内の南東にある宿坊「御室会館」に宿泊すると、金堂における朝のお勤めの様子をみることができるのだそうです。
香取秀真の梵鐘から放たれる響きを聴くことができる、かもしれません(私は朝が弱いので永遠に無理そうです)。