野田弘志の「湿度」

 

特別展「野田弘志 真理のリアリズム」

■2022年9月17日〜11月6日
奈良県立美術館

 

「リアリズム」に「超」をつけると、「シュルレアリスム」になるし、「ハイパー・リアリズム」にもなります。

周知の通り、野田弘志(1936-)は写実主義の画家、リアリズムの人と称されています。

しかし、単にヒト・モノ・風景を写しているわけではありません。

 

当然に写実を「超えた」何かが描かれているのですが、それはもちろん手法が全く違うハイパー・リアリズムの範疇には回収されえないし、シュルレアリスムの世界からも近いようで遠い。

 

あえてそれっぽい表現を使うなら、ディープ・リアリズム、でしょうか。

yamatoji.nara-kankou.or.jp

 

今年の4月、山口県立美術館からスタートした野田弘志の大規模特集展が、姫路市立美術館での展示を経て、奈良に巡回してきました。

奈良県美は写実絵画に関心を示す傾向があって、5年前の2017年には「ニッポンの写実 そっくりの魔術」展を開催。

ちょうど20年前の2002年に開催された「写実・レアリスム絵画の現在」展ではまさに野田弘志作品をキービジュアルとしたポスターが使われていました。

往時を懐かしむように、この美術館で特集されたリアリズム絵画企画展のポスターが館内に並べて掲示されています。

 

 

学生時代に描かれた油彩画から最近作まで、この画家の業績が丁寧にトレース、網羅されています。

野田の名を一躍メジャーにしたという、加賀乙彦の新聞連載小説『湿原』への挿絵原画群を1階展示室の大部分を使って全面展開するなど、質と量、両面で抜かりなく構成された大規模展。

気がついたら2時間を超える鑑賞時間が経過していました。

非常に充実した企画だと思います。

 

ゴルフ雑誌の表紙、絵本の挿絵、三菱ミニカのポスターまで。

画家としてデビューする前、デザイナー、イラストレーターとして活動していた野田の作品には、エロスやファンタジー要素など、70年代の空気を巧みに組み入れた作風が見てとれます。

横溝正史全集の装丁画まで手がけていて、そのビアズリーを思わせるような神経質な線描に見入ってしまいました。

 

とにかく筆を自在に操れる人です。

ものすごいテクニシャン。

しかし、この画家が、本当に描きたい事物を描きたくなったその時、それまで関わってきたビジネス・マーケットの世界がおそらく彼の中でごっそりと崩落したのでしょう。

異様なまでに「モノ自体」に迫る写実の世界が開かれていきます。

 


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岩石、鳥、果実、骨、人物。

どれもこれも、徹底的にリアルな描写が追求されているのですが、では、ここに描かれた対象物を実際に観察したとして、野田弘志が描いたように見えるかといえば、そんなことは絶対にないわけです。

ヒトもモノも、その存在自体が画家によって「現実」のディメンションからさらに深い層に置かれているように見えてくる。

その圧倒的な説得力と異次元感。

描かれているのは、実は対象物だけではなく、それをも内包した上での、「別の世界」そのものなのです。

 

 

人やモノがある程度特定された描画と違い、風景画ではさらにその異形な世界像がストレートに提示されていて圧倒されます。

 

中でも印象的だったのが、「トドワラ」(1990)。

ゼンマイのような形をした奇妙な地形、北海道・野付半島にみられる、「骨」のように立ち枯れた木々の風景。

ここを実際訪れたことがあります。

不穏さと美しさに言葉を失う光景。

野田は灰色の空と緑の地面の二色をまず設定し、余計な空や海の青さ、ノイジーな色彩を徹底的に排除しています。

白と黒と緑。

ほぼこの三色で緻密に描かれたトドワラの風景は、実際の広さを超えて、どこまでも無限に続くような静寂と深淵の世界。

時間を忘れて絵の前に立ち尽くしてしまいました。

 

草津白根山火口、摩周湖、美ヶ原。

この人の描く風景にはどこか「見えない水蒸気」の気配、独特の「湿度」を感じさせるところがあります。

また偶然かもしれませんが温泉地に近い土地が多い。

そもそも画家がアトリエ兼住居を構えている北海道壮瞥町には洞爺湖温泉郷があります。

多分、かなり温泉が好きな人なのではないでしょうか。

野田作品に共通するどこかしっとりとした「湿度」、そのモイスチャー成分の秘密は、ひょっとするとそんなところにあるのかもしれません(全くの妄想です)。

 

残念だったのは、求龍堂から出版された本展の図録には掲載されている「崇高なるもの」OP.7(ホキ美術館)が奈良では出展されていないこと。

2018年、当時93歳だったイヴリー・ギトリスをモデルとしたこの作品は、魔弓の人と喧伝されたこのヴァイオリニストが到達した人柄がじわりと滲む傑作です。

せっかく前後期(後期は10月18日から)に分けて開催されているのですから、なんとかならなかったのかなあとは思います。

 


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山口・兵庫・奈良とかなり西日本に偏った今回の巡回展ですが、最終の開催地は、画伯の地元北海道、札幌芸術の森美術館(11月19日〜来年1月15日)です。