松尾大社 本殿と三神像

 

松尾大社の本殿が特別公開されたので見学してみました。
(京都古文化保存協会主催・2022年11月3日〜12月4日)

境内はフラフラと散策したことがありますが、拝殿から両翼に伸びる回廊の中、本殿(重要文化財)そのものを観たことはありませんでした。
神職の方が見学者を数名単位でまとめて本殿近くまで案内し、松尾大社の歴史や本殿の特徴などを丁寧に説明してくれます。
およそ30分単位でスタート時間が決められているので、タイミングが合わないと受付場所で待たされることになりますが、重森三玲の作による庭園など、他にも見どころがあるので、ブラついていれば時間を潰すことができます。

お祓いを受けたあと、回廊に開けられた小さい門から本殿南側の空間に案内されました。
なお、特別公開といっても、当然、本殿の内部まで立ち入ることはできません。
外観の見学のみです(写真撮影もこれまた当然に禁止です)。

 

 

松尾大社自体の創建は701年。
京都屈指の古さを誇りますが、現在建っている本殿は1397(応永4)年、室町時代前期の築造とされています。
同じ年に足利義満が北山第、つまり今の鹿苑寺(金閣寺)の前身を造営しています。
足利幕府がその絶頂に向けてライジングしていく時期と重なっていたことになります。

応仁・文明の乱では、松尾大社のすぐ北のエリア、嵐山の天龍寺まで焼け落ちてしまいましたが、奇跡的にこの本殿が戦火の被害を被ることはありませんでした。
しかし、築造から約150年後の1542(天文11)年、大改修が行われています。
この「天文大改修」は神社のパンフレット内でもわざわざ特記されていますから、実態としては、造替に近いくらい大掛かりなものだったのかもしれません。
現状の本殿は実質的におそらく室町時代後期の姿を色濃く残しているということができそうです。
高欄などは江戸時代に施されたものです。

つい最近、2016年から18年にかけ、檜皮葺の屋根が新調され、金具などの装飾も丁寧にメンテナンスされていることもあってか、約500年前の建造物とはにわかに信じ難いくらい、非常に現役感の強い社殿です。

しかし、正面の柱を受ける舟肘木は独特の古様を残しているようでもあり、築造当時の根本部分は保たれているのではないかと感じました。
屋根は「両流造」とよばれる妻側のシンメトリカル性を尊んだ珍しいスタイル。
回廊の外側では観ることができないこの社殿がもつ独特の美しさを確認することができました。

 

 

境内の北西に「神像館」があります。
ここは庭園とともに有料一般公開されていますが、今回は本殿特別公開料金内で入館することができました。
せっかくの機会なのでこちらも見学。
日本美術史のテキストでは、当然に仏教彫刻がメイン・コンテンツの一つで「神像」は仏像史の脇におかれがちですけれど、ここ松尾大社の三神像は別格でしょう。
この国の彫刻史で外すことができない重要作例として極めて有名な彫像です。

1909(明治42)年、当時の京都帝室博物館に寄託され、以後長らく松尾大社の外にあったわけですが1994(平成6)年、京都国立博物館からこの社に戻ってきた重要文化財です。
実際に間近で観ると、まずその大きさに驚きます。
座してはいるものの、ほとんど等身大のサイズです。
向かって右から女神像、男神像(老年)、男神像(壮年)とガラスケースに収められて展示されています。
1000年以上前の木彫ですが、女神の口元には紅の色が残り、三像とも不思議な生々しさを保っていて、その強力な存在感に圧倒されました。

この神像については、伊東史朗 和歌山県立博物館館長の詳細な研究が知られていて、ちょうど今年の3月に思文閣出版から刊行された『神像の研究』の中でも「松尾大社神宮寺旧在三神像の神名」という興味深い考察が発表されています。

 

 

詳細は省きますが、この論考によれば、三神像の造立時期はおそらく849年から853年頃、文徳天皇の時代、9世紀半ばの平安時代前期にあたるそうです。
真ん中の老年男神像は「大山咋神(おおやまぐいのかみ)」、女神像は「玉依日売命(たまよりひめのみこと)」、壮年男神は「賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)」と比定できると解説されています。

松尾大社では、主祭神大山咋神市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の二柱としていますから、老年男神像を大山咋神とすることに問題はなさそうです。
しかし、伊東説によると、女神像は玉依日売命、壮年男神像は賀茂別雷神となってしまうわけで、この二神像は松尾大社ではなく、むしろ、上賀茂神社と直結している神々となってしまうことになります。
ということもあってなのでしょうか、神像館の展示では、三神像の「神名」についてはあえて明記を避けているようです。
松尾大社を創建した秦氏、賀茂下上二社の賀茂氏、いずれも平安京造営前からこの地に地盤を持っていた有力氏族ですから、その交差はむしろ自然の成り行きだったかもしれません。
いずれにせよ、この三神像からは、その奥深い歴史も含めて、類例のない畏怖混じりの美を感じてしまいます。

 

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