京都御所 小御所障壁画をめぐって

 

京都の夏に、花火はありません。

正確には、市内で大規模な打ち上げ花火大会などが行われることはない、というべきでしょうか。

木造家屋が密集する街なので当たり前のように思われますが、昭和29年頃までは普通に打ち上げられていたのだそうです。

それが実質的に御法度となったのは、ある有名な火事があったからです。

 

1954(昭和29)年8月16日、京都御所内、小御所が炎上しました。

京都市消防局の記録では、「鴨川河川敷で,新聞社主催の花火大会が行われ,落下傘型打上げ花火の残火が檜皮葺屋根に落下し出火」と原因が特定されています。

炎を上げる小御所の生々しい写真がモノクロですが残っていて、消防局のHPで見ることができます。

www.city.kyoto.lg.jp

 

このとき焼失した小御所は、1855(安政2)年、安政度の内裏造営時に建てられたもの。

室内を飾っていた華麗な近世障壁画もその多くが失われました。

ごく一部、狩野永岳と冷泉(岡田)為恭によって描かれた12枚だけが、昭和初期に制作された模写に替えられていたため、原本が別保管されていて、難を逃れています。

 

今秋の京都御所特別公開(2022年11月19日〜23日)では、その内、狩野永岳が描いた小御所「上段の間襖障子」の北側6面が、宜秋門番所のコーナーで展示されました。

非常に凝ったディテールと独特の様式美をみせる永岳らしいマニエリスム的な画風が確認できました。

狩野永岳 小御所「上段の間」襖障子の一部

安政度の小御所障壁画は狩野永岳、岡田為恭はじめ、鶴澤探真、原在照、岸竹堂といった京狩野、江戸狩野、原派、岸派など、錚々たる絵師に仕事が任されていました。

天皇の居住空間だった「御常御殿」等には、円山・四条派によるやや文人画風のセンスを感じさせる障壁画も組み込まれていますが、幕末の「小御所会議」に代表されるように、公的機能を担う場所であったこの建物では、「古典」のスタイルを得意とする絵師たちが選定されているようです。

 

さて、焼失した小御所は炎上から3年あまり経った1958(昭和33)年に再建されました。

今回の特別公開では、小御所東廂も全て開け放たれたのですが、そこにみられる障壁画は当然に安政度ではなく昭和再建時に描かれたもの。

建物と一緒に焼けてしまった障壁画群は、宮内庁から依頼を受けた菊池契月門下の日本画家30名によって再現されています。

 

 

この京都御所特別公開と同期をとったのかどうかはわからないのですが、とても関係の深い企画展が別の場所で催されていたので覗いてみました。

 

京都市立芸術大学 芸術資料館の「うつし展―京都御所小御所襖絵と本館模写資料」(2022年10月29日〜12月4日)です。

libmuse.kcua.ac.jp

 

この展覧会では、小御所障壁画再現を担当した画家たちの一覧の他、どういう経緯で菊池契月の弟子たちが選定されたのか等、とても興味深い考察が示されていました。

30名の中には、宇田荻邨や梶原緋左子といった菊池門下を代表する画家や、梥本一洋の兄武雄なども含まれています。

 

その中の一人、松元道夫の日記に、菊池塾に小御所襖絵再現の仕事が依頼された理由とみられる一文が確認できるのだそうです。

菊池契月は、1954(昭和29)年からはじまっていた平等院鳳凰堂壁画模写事業の監修を任されていました。

その仕事ぶりが文部省ばかりか「大蔵省」にまで高く評価されたため、宮内庁(京都事務所工務課)から契月に発注する流れができたと松元は推察しています。

ところが肝心の菊池契月は1955(昭和30)年9月、小御所襖絵の再現に取りかかろうというまさにその直前、急逝してしまいます。

結果、弟子30名が師匠の仕事を引き継ぐことになりました。

京都御所 小御所東廂障壁画の一部

現在、小御所にみられる昭和30年代に描かれた襖絵は非常に鮮やかな色彩が印象的です。

京都芸大の展示解説では、この昭和の模写について「江戸時代絵画の筆墨技法に欠けるこれは模写といえるのか」とし、「強い違和感を覚える」と指摘しています。

現在主流となっている模写のスタイルは、原本の傷みや劣化などの風合いもそのまま取り込む「現状模写」か、原本が制作された当時の技法と素材を使用する「復元模写」のいずれかといわれています。

それに対し、小御所の再現模写は昭和の岩絵具を使い、近代以降の日本画技法で描かれたもの。

つまり、模写として、中途半端な再現になってしまっているのではないかという指摘。

かなり手厳しい解説文に驚きましたが、確かに、例えば二条城で行われている模写事業の精緻さと比較してしまうと、「物足りない」ということになってしまうのでしょう。

といって、いまさら復元をやり直すということも非現実的かもしれません。

昭和の「模写」も、その時代にとりえたスタイルの一つではあり、近代京都画壇の一脈を成した菊池塾の仕事がまとめて残されたという意味で一定の価値があるのではないか、とも感じました。

いずれにせよ、京都芸大によるこの「うつし展」は、一般的な無料のミニ企画展レベルをはるかに超えた濃厚な内容を持っていて、とても参考になりました。

 

京都市立芸術大学、まもなく沓掛から塩小路に移転します。

移転後もぜひ今の「芸術資料館」が持っている尖った企画性を継続してほしいなあと思いつつ、おそらくこれが最後となる沓掛キャンパス訪問を終えました。