大阪中之島美術館のGUTAI展

 

大阪中之島美術館 国立国際美術館 共同企画
すべて未知の世界へ ー GUTAI 分化と統合

■2022年10月22日〜2023年1月9日
■大阪中之島美術館

中之島の2館で同時開催されている大「具体」展。

先月、国立国際美術館の方をまず鑑賞、今回は中之島美術館側です。

隣り合っていますから、一度に両館鑑賞してしまえば効率的だったのですが、なにせ「具体」。

各々の作品が放つであろう高い熱量におそれをなし、期間をあけての鑑賞となりました。

 

nakka-art.jp

 

展示の終盤、現在も活躍している「具体」出身アーティスト3名のインタビュー映像が流されています。

向井修二(1940-)、松谷武判(1937-)、今井祝雄(1946-)。

80歳前後の大ベテランたちですが、発言はそれぞれに尖っていて、面白く視聴しました。

 

中でも向井修二のコメントが印象的でした。

ミシェル・タピエが問題だった」、と。

具体美術協会の名を世界的に広めたこの評論家に一定の感謝を示しつつも、タピエの影響力によって、「具体」の方向性が、アンフォルメル、つまり「絵画」のジャンルに傾いてしまったことを向井はかなり批判的にみているようです。

確かに、今回中之島に集められた「具体」作品の大半が描画です。

田中敦子の「ベル」や「電気服」に代表されるような、絵画を離れた作品は限定的でした。

50年以上前、「具体」が目論んだ「オリジナリティ」の創造を生き生きと感得できる芸術は、むしろ絵画以外に現れていたともいえますから、その意味で向井のコメントには重みがあります。

 

向井修二《UNTITLED》

 

今回あらためて「具体」の絵画を大量にまとめて観て意外な印象を受けました。

それは彼らの作品がひどく「古典的」にみえてきたこと。

具体美術協会の総帥、吉原治良は「クラシックからの解放、あるいは断絶が必要」と挑発的に宣言し、オリジナリティ最優先の姿勢を鮮明にしていたにもかかわらず、1972年の彼の死、そして具体美術協会解散から半世紀経った今、各々の作品が、すでに「クラシック」の雰囲気を纏いつつある、そんな風に感じられたのです。

 

元永定正《作品》

今回の2館共催企画は、国際美術館側が「具体」の「統合」、中之島美術館側が「分化」とそれぞれテーマと役割を設定しながら作品を選定しています。

しかし、「分化」と「統合」、その両面を目まぐるしく行き来した「具体」の存在自体が非常に両義的なので、明確に両館でその違いが提示されていたわけではありません。

むしろ、両館のどちらかに偏りを生じさせないように、バランス良く各アーティストが振り分けられていた印象。

これも「具体」の作家たちが一定のクオリティを持っているからこそできる企画だったといえます。

吉原治良《無題》

今年の夏、兵庫県立美術館が「関西の80年代」と題した企画展を開催しました。

そこにはまだまだ「古典」のオーラを纏うには早すぎる、というより永遠にクラシックにはなりそうもない、安っぽくて青臭いエネルギーが横溢していました。

しかし、それからわずか10年くらい時代を遡っただけの「具体」の作品からは、もうある種の「高級感」すら漂ってきます。

実際、「具体」作品の市場価格はこのところ上昇を続けていて、もはや一種のブランド化が達成されている状況。

中之島美術館のクールに整えられた広大な展示空間で鑑賞すると、余計そのイメージが強化されているようにも見えてきます。

 

今井祝雄《白のセレモニー HOLES #5》

 

でも、それは決してネガティブな印象ではありません。

それぞれの作品がもつアートとしての完成度の高さが、時代を経て、当然にその価値を主張している結果であるとみなすこともできると思います。

「具体」が、新奇性だけを追い求めた若者たちのマスターベーション的運動とはかけ離れていたことが、50年の時間によって証明されたと考えられなくもありません。

もっと言えば、「具体」として認めるか否かを絶対的な決定権を持って判断した吉原治良のセンスがいかにずば抜けていたか、ということでもあるのでしょう。

 

白髪一雄《ミスター ステラ》

 

吉原治良によって、常にオリジナリティを最優先価値として要求されていた具体のメンバーたち。

彼らは必然的に「手段」を重要視していくことになります。

その代表が白髪一雄のフット・ペインティングになるのでしょうけれど、鑑賞者は彼の作品が足という「手段」で描かれていることに価値をおいて観ているわけではありません。

そこに表された絵具の情念みたいな圧倒的な絵画としてのクオリティに魅せられているわけです。

「手段」の新しさはオリジナリティを獲得する一つの要素ではあっても、作品そのものの価値を決定するものではなく、結局、内在される「古典性」、つまり「クラシック」たりえるかというところにかかっています。

 

松谷武判《繁殖 65-24》

しかし、これは随分皮肉めいた事態でもあります。

吉原自身は「クラシックからの解放・断絶」を高らかに宣言していたわけですから。

向井修二が苦々しく回想しているように、ミシェル・タピエによってグローバルなアート世界に取り込まれた「具体」が、アンフォルメル運動の日本による一派として位置付けられてしまったことも吉原の「宣言」からみると実は大きく乖離した事態でした。

タピエがいち早く「具体」に目をつけた要因も、「具体」が秘めていた「古典性」にあったからではないか、そんな風に推測してしまいます。

 

吉原は、具体美術協会展への出品を許さなかった作品、作家から見れば「ノー」を突きつけられた作品について、なぜ認めないのか、その理由を一切言わなかったのだそうです。

こうして、「具体」が今やクラシックの雰囲気を纏いつつある状況を考えると、むしろ、吉原が「だめ」と判断した作品こそ見てみたい、そんな欲求も感じています。

 

 

 

 


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