大徳寺の塔頭、三玄院(さんげんいん)が特別公開されたので見学してみました。
(京都市観光協会主催 2023年1月16日〜3月13日)
「京の冬の旅」企画では初公開とのこと。
なお、受付から奥、庭園や建物は一切撮影NGです。
大徳寺法堂のすぐ西側に位置し、南側には正受院(非公開)が隣接。
門前は何度も通っていますが、中に入るのは初めてです。
表門から入って右側に「昨雲庭」と名付けられた庭園が設けられています。
シンプルに整えられた枯山水。
庭自体さほど大きくはないのですが、巨大な法堂を借景として上手に取り込んでいて、実際の広さよりも雄大に見えるような感覚を得ました。
最大の見ものは方丈の中に描かれた原在中(1750-1837)による襖絵群です。
この絵師らしく、さまざまな流派のスタイルを駆使して図像を描き分けていて、まるで近世の水墨障壁画見本コーナーみたいになっているところが面白い。
等伯風の猿猴、応挙風の孔雀や滝、狩野派的な花や岩石が、四季を表現しつつ各間にきちんと収まっています。
中でも室中南面に描かれた虎は水墨のデリケートな濃淡がよく残っていて、在中のテクニシャンぶりが確認できる優品と感じました。
なお、西本願寺から移築された織部好みの名茶室「篁庵(こうあん)」の内部は、今回、公開されていません。
方丈は1817(文化14)年に建てられた江戸時代後期の建物です。
(その前年、焼失したものの再建)
しかし、庭園や庫裡を含め、ここは元来、三玄院のものではありませんでした。
三玄院が現在の場所に寺域を定めたのは明治時代に入ってからのことです。
明治維新の後、経済基盤が著しく弱体化した大徳寺は、塔頭寺院の整理統廃合にふみきります。
現在、三玄院がある場所にもともとあったのは龍翔寺。
龍翔寺がこの「塔頭リストラ」によって、1889(明治22)年、実質的に廃された後、存続した三玄院がそこに移り、現在みられる方丈等の建物も受け継がれました。
もちろん龍翔寺自体、廃されるくらいですから相当に建物は傷んでいたのでしょう。
現在みられる方丈は内装も含め近代以降、当然に修復、改良が加えられているものと推測されます。
では、もとの三玄院自体はどこにあったかというと、現在ある場所、つまり旧龍翔寺エリアの西に位置していたのだそうです。
建物などはすでに失われています。
実はこの明治の大リストラによって、三玄院は施設と共に、重大な寺宝を失ってもいます。
例の有名な長谷川等伯による襖絵群です。
狩野派に伍すため、京都で売り出し中だった等伯は、三玄院の開祖春屋宗園に襖絵を描かせてほしいと願いでますが、断られていました。
ところが、等伯はこの住職が留守をしている間に勝手に寺に入り込み、襖絵を施してしまいます。
春屋宗園が怒ったのはもちろんですが、その出来栄えが素晴らしかったため、そのまま襖絵は残されることになりました。
なりふり構わず自己アピールした等伯の必死さと自負、そしてその才能を象徴するエピソードとしてよく知られています。
その等伯による伝説的襖絵が、明治の塔頭リストラ時、三玄院から流出。
現在は高台寺の塔頭圓徳院(実物は京博と石川県七尾美術館に寄託)と楽美術館に分蔵されています。
残っていれば三玄院の大名物となったはずですが、こうしたレガシーを手放さざるをえないほど、当時、経済的に窮していたということでしょう。
さて、三玄院に寺域を明け渡し、一旦、廃寺となってしまった龍翔寺。
その後、劇的な復活を遂げます。
1925(大正14)年、大阪の実業家山口玄洞の寄進によって、大徳寺境内の北西、総見院の西隣にあたる場所に新たに建立され現在に至っています。
ちなみに、山口玄洞は寺への寄進を生き甲斐にしていたような人物で、彼によって復活した各地の堂塔は100を超えるといわれています。
現在の龍翔寺は大徳寺派の修道道場となっていて、内部は通常非公開ですが、立派な楼門だけはいつでもじっくり鑑賞することが可能です。
この大正復活伽藍の設計にあたったのが近代仏堂建築で数々の実績を残した京都府技手、安井猶次郎。
火灯窓と丸窓を組み合わせた楼門のデザインからは古典を意識しながらもどことなく近代の様式が漂ってくるように感じられます。
現在の龍翔寺は、三玄院よりも広い敷地にいずれも安井猶次郎設計による堂宇が立ち並んでいて、大徳寺塔頭内でも有数の規模を誇っています。
三玄院と龍翔寺。
今はどちらも静かに大徳寺内に佇んでいますが、実は結構ダイナミックに関係している塔頭です。
三玄院で配られているリーフレットには、当然のことながら、明治期の混乱等は記載されておらず、今では主に、篁庵でのお茶会や、石田三成が帰依していたことで有名な寺院となっています。