醍醐寺に属する院家の一つ、理性院(りしょういん)が特別公開されたので見学してみました。
(京都市観光協会主催 2023年1月7日〜3月18日・休止日あり)
今年の「京の冬の旅」の中では、その公開希少性等も勘案すると、総合的にみて、最も面白い寺院かもしれません。
醍醐寺の境内に入り三宝院を左手に見ながら進み、仁王門の前まで来たら左折。
三宝院の長い東側の塀づたいに進むと理性院の表門が見えてきます。
平安時代創建の別格本山として高い格式を誇りますが、寺域はさほど広くはありません。
三宝院の北東側にちょっと出っ張ったように位置しています。
なお、醍醐寺本体や三宝院とは寺域が区別されていますから、この寺院だけ観るなら追加の拝観料は必要ありません。
「京の冬の旅」での公開料金、800円のみです。
特別公開の受付は「客殿」入り口に設けられています。
この建物については、醍醐寺座主義演(1558-1626)が記録した『義演准后日記』に、1617(元和3)年10月5日に立柱した、という記載があるそうです。
後世の改築修復が強く反映されてはいますが、コアとなる部分は地味に貴重な江戸時代初期の遺産ということになります。
そして、義演の日記は、この建物の建築時期だけでなく、重大な美術史上の証言をも記録していました。
客殿上段の間に描かれた「琴棋書画図」の一部とみられる障壁画に関係する一文。
『義演准后日記』1620(元和6)年10月25日の箇所に以下の記載があることが知られています。
「理性院見舞の為に罷り向いおわんぬ。狩野采女座敷絵之を書く。召し出して盃之に賜う。」
「狩野采女」とはすなわち、探幽(1602-1674)のことです。
この記録をふまえ、上段の間障壁画が狩野探幽、18歳時の描画ではないかという説が美術史家の小嵜善通から発表されました(「醍醐寺理性院客殿の障壁画について」フィロカリア4 大阪大学文学部 1987年)。
署名落款の類はありませんから、あくまでも「状況証拠」の積み上げによる推測なのですが、その後、河野元昭(現静嘉堂文庫美術館館長)も、東博が所蔵する若き日の探幽画の一つ「帝鑑図押絵貼屏風」との比較などから、さらにこの論を強化しているため、小嵜説がほぼ通説となっているようです。
障壁画が描かれたとされる元和6年、すでに探幽は幕府御用絵師のステイタスを得ていますから、座主義演がこの青年絵師に盃をとらせてねぎらったことをわざわざ記録していても不思議ではありません。
二条城二の丸御殿の障壁画群によってその画風が確立してくる前の作品。
正直、目を見張るような傑作という印象は受けないのですが、品の良い松の表現などに狩野派伝統の技が仕込まれているような雰囲気は感じとれました。
なお、障壁画は写真撮影OK。
貴重な鑑賞機会となりました。
さて、若き探幽の筆が今回の「京の冬の旅」ではクローズアップされていますけれど、理性院本来の魅力は秘仏太元帥明王を存置する「本堂」にあります。
この建物も『義演准后日記』にその建立記録が残されています。
「客殿」の建造から遡ること5年前、1612(慶長17)年に完成したことが記されており、その外観はこの時期の様式を示しているため、日記の記載と矛盾はないとみられています。
「客殿」とともに、小規模ながら近世初頭のスタイルを今に伝える貴重な建築物です。
内部は後世の改変が加えられていますが、秘仏を格納する唐破風の屋根をもった小さな宮殿風の厨子を中心に濃密な真言密教の修法空間が形成されていました。
なお、本殿の内部は当然に撮影禁止です。
太元帥明王を収めた厨子の向かって右側に鎮座している不動明王像。
黒く光るその姿は一見、さほど古い彫像には見えないのですが、実は平安時代の作です。
セットになっている制吒迦童子と矜羯羅童子が江戸時代のものなので、長らく不動明王像も同時期の製作とみられていたようです。
ところが、1989(平成元)年、その前年から行われていた文化庁の重要社寺調査によって、平安期の像ということが判明、ただちに重要文化財に指定されています。
東寺の不動明王などに代表される神秘的な憤怒の造形と比較すると、整えられたスタイルをもっているので、平安時代の末期、12世紀頃の像と推定されています。
かなり接近して鑑賞することができました。
大きな彫像ではありませんが、不思議な気品と安定感があります。
大元帥明王(太元帥明王)信仰は平安時代前期の入唐僧、小栗栖律師と称される常暁によってこの国にもたらされました。
もともとは弱い者いじめをしていたという悪鬼ですが、大日如来の教えによって善神となった後は国土守護の力を有する強力な明王として崇められるようになりました。
852(仁寿2)年からは宮中で正月8日に大元帥法が修されるようになり、14世紀頃には理性院がそのエキスパートとなったようです。
応仁文明の乱によって下醍醐一体は荒廃、理性院も被害を免れることはできず、宮中での修法も義演がその様子を嘆くほどに簡略化が進みましたが、毛利や島津といった戦国大名がこの寺の大元帥明王を尊んだため、信仰が途切れることはありませんでした。
80年に一度、開帳されるという秘仏太元帥明王(たいげんみょうおう)の像は当然に観ることはできません。
しかし、その像(江戸時代の木彫)のもととなったとみられる図像は、現在、醍醐寺霊宝館で展示されている鎌倉時代の絵画「太元帥明王像(八臂)」(重文)として確認することができます。
醍醐寺には有名な国宝絵画、「五大明王像」があり、この作品も霊宝館で展示されています。
「太元帥明王像」はその彩色や線描の様子が「五大明王像」とよく似ています。
むっちりとした青黒い肌で、獅子などの眷属を従えつつ、今にも飛び上がりそうな姿勢で躍動している姿が極めて印象的。
理性院の秘仏をこの絵画を通して想像すると、本堂のもつ密教空間がより生々しく感じられるかもしれません。