没後190年 木米
■2023年2月8日~3月26日
■サントリー美術館
一般的に「青木木米」と表記される人です。
ただ、「木米(もくべい)」の「木」は、青木というこの人の苗字、あるいは生家の屋号「木屋」から取られているといわれています。
つまり「青木木米」としてしまうと、まるで「馬から落ちて落馬した」というような間抜けな言い方と同じ表現ともうけとられかねないため、近年、この江戸後期アーティストについては、「青木」をとり、「木米」と称されることが多くなっているとのこと。
そもそも木米自身、「青木木米」と名乗った記録もないそうです。
英題は"A Mokubei Retrospective"
いわれてみれば、たしかに、「木米」の方がクールかもしれません。
木米(1767-1833)は、京都、祇園のお茶屋に生まれた人です。
大和橋から白川筋を鴨川に抜けるあたり。
レストラン菊水から川端通をちょっと上ったところに、とても小さな社、「祇園弁財天」があります。
その境内に「陶匠青木木米宅跡」という石柱がひっそりと立っています。
建立したのは「洛陶會」(洛陶会)。
「昭和四年六月」とその時期も彫られています。
近世京焼の偉人として、この街の陶工たちに古くからリスペクトされてきた木米の記念碑です。
京博や東博のコレクション展などでもよくその作品を目にする巨匠ですけれど、これだけまとまった規模の特集展は珍しいのではないでしょうか。
今年は没後190年。
当然に観てはいませんが、今から半世紀以上前、1967年に大和文華館が開催したという「生誕200年」記念展以来の木米大回顧展となるのかもしれません。
さて、昨年のちょうど今頃、2022年の3月から5月初旬にかけて、京都国立近代美術館が「サロン! 京の大家と知られざる大坂画壇」という大規模な文人特集展を開催しました。
キーパーソンである木村蒹葭堂をコアに、京都と大坂で活躍した絵師、画家たちを広範にとりあげた、ある意味、歴史的企画といっても良い、素晴らしい展覧会でした。
ところが、この京坂文人サロン展、なぜか「木米」が無視されていたのです。
木米というと、どうしても京都の陶芸家というイメージが強いため、「画壇」、それも特に大坂側を重視した「サロン!」展では、構成が散らかることを恐れ、あえてこの巨人を省いた、と推測することもできます。
でも、今回のサントリー美術館展を観て、京近美があの展覧会で木米をほぼ完全に無視してしまったことは、かなりもったいないことではなかったか、そんな気分にもなっているのです。
木米という人については、誤解をおそれずに言ってしまうと、稀代の「マニエリスム」陶芸家、と理解しています。
中国、特に清代の陶芸技法を旺盛に取り込んだ彼の作品は、大陸の巨匠たちによる「手法」を自らの血肉と化したようなところがあり、その作風は実に多種多様。
染付、青磁に金蘭手、三島、交趾、高麗風の茶碗。
さらに師匠といわれる奥田穎川に加え、仁清のセンスまで身につけてしまった木米は、江戸後期における「陶芸技法のデパート」を一人で実現してしまっているような凄さがあります。
しかし、木米は、断じて単なる「陶工」ではないのです。
「文人」とされる人々が何より嫌ったこと。
それは特定分野の「専門家」と見做されることでした。
一つのことに拘泥し、「その道のプロ」とされることを文人たちは忌み嫌っていたとされています。
詩書画が中心にあるとしても、「詩人」「書家」「絵師」、その一つだけに特化した名人になってしまっては、もはや「文人」とはいわれないわけです。
木米も「陶工」あるいは「陶人」としてその実力を知られていたとはいえ、彼とつながりをもった大物の文人、頼山陽や田能村竹田といった人たちは、木米を作陶の職人としてみていたわけではありません。
「陶」だけの人ではない、あくまでも「文人」として交わり遊んでいたのです。
その証拠にこの展覧会では、木米の「画」がいかに素晴らしいものであったか、代表作である「兎道朝潡図」(東博本とは別の個人蔵・重文)をはじめとする作品の数々によって明らかにされています。
また煎茶、特に涼炉の名品にも強く惹かれました。
おびただしい文字で埋め尽くされたその側面には、焼成によって得られた微妙な色彩がみられます。
土に、「書」と「画」が見事に映されています。
「陶」一辺倒の人では全くない、「文人 木米」の全貌が立ち現れてくる展覧会です。
木米が陶芸に本格的に目覚めるきっかけをつくった人物。
それは他でもない、大坂文人サロンの中心人物、木村蒹葭堂でした。
しかも、木米と彼を結びつけたのは、大坂画壇の巨匠、中村芳中です。
木米は蒹葭堂が蒐集していた清朝期の名著『陶説』と出会ったことで、その芸風を深めていくことになります。
つまり、木米こそ、実は昨年、京近美が「サロン! 京の大家と知られざる大坂画壇」展で真っ先に取り上げて然るべき、典型的な京・大坂をまたいだ文人ネットワークが生んだアーティストだったのではないか、と思ったわけです。
あの展覧会の徹底した「網羅性」が素晴らしかっただけに、「木米抜き」となったことがいかにも惜しい、と感じるのです。
ただ、邪推してしまうこともあります。
これだけの規模でサントリー美術館が「木米」展に向けて彼の作品を1年後に取り上げるべく準備していたことを、仮に京近美側が知っていたとすれば(準備期間のタイミングからみて業界内では周知の事実だった可能性が高いと思われます)、あえて、「サロン!」展では木米を省いたのかもしれない、と。
中途半端にこの近世京都を代表する文人名工を紹介するくらいなら、いっそのこと、六本木に丸ごと任せてしまおう、ということになったのかもしれません。
とすれば、この「木米展」は、京近美の思惑(私の邪推)に十分すぎるくらい応えた内容になっていると思います。