津守秀憲と田村菜穂|京都市美術館「跳躍するつくり手たち」

 

特別展 
跳躍するつくり手たち : 人と自然の未来を見つめるアート、デザイン、テクノロジー

■2023年3月9日〜6月4日
京都市京セラ美術館

 

20代から50代、新進から中堅どころのアーティストたち、合わせて20の個人及びグループによる近作を中心とした特別展です。

とても多種多様な作品が並んでいますけれど、共通して感じられる要素がありました。

個々の作家たちが「素材」、そして「技術」に、とてつもなく真摯に取り組んでいる、その姿勢です。

モダンアート、というより「工芸」の世界に傾斜した企画といえるかもしれません。

 

 kyotocity-kyocera.museum

 

 

男性作家の比率が非常に高いことも特徴です。

ポリコレ的「多様性」云々が、最近のアート業界では特に意識されやすい中、この出展作家構成は、ある意味、潔い態度といえるかもしれません。

でも、展覧会の監修をしているのは、川上典李子。

女性です。

 

さて、いずれも素晴らしい出展者ばかりなのですが、特に印象に残ったアーティストが二人いました。

展覧会の最初と最後にその作品が展示されています。

 

 

まず、入口付近に出展されている津守秀憲(1986-)の作品群。

ガラスと土が組み合わされています。

津守自身が語っているのですが、この二つの素材はとても接合させることが難しいのだそうです。

たしかに見たことがない独特の風合いが感得できます。

ガラスは灰色の土と融合するために、その透明感を喪失させられているようです。

代わりに、まるで深海の底で人知れず熱湯を噴き出す温泉口が醸すような生命力、あるいは、真っ白い粘菌のごとき有機性が獲得されているようにも見えます。

とても幻想的な陶で、どこか、ルドンのエッチング作品を想起させらるような趣も感じられました。

 

津守秀憲「胎動 '19-7」

さらに驚くのは、「存在の痕跡」と題された円筒状のモチーフが連続する作品の佇まい。

非常にデリケートな形状をしているにもかかわらず、わずか3箇所ほどの立脚点でしっかり自立しています。

難易度がとても高いと思われるバランス調整の技。

立脚点を絞ることで、作品が浮遊しているようにも見えてきて、素材自体の脆弱な美しさがさらに際立つ効果をあげているように感じました。

 

津守秀憲「存在の痕跡 '22-4」

 

 

田村菜穂 「FLOT[T]」

 

一方、展示の最後、出口付近には、津守とは対照的な、全く別種の「ガラス」の美が展開されています。

 

田村菜穂(1976-)による「FLOT[T]」(フロート)、です。

 

ワイヤーロープによっていくつものガラス・オブジェが吊るされ、中に仕込まれた白熱球的な色合いをもったランプがゆっくりと明滅していくインスタレーション

ガラス自体はヴェネツィアの職人たちが吹いたものなのだそうです。

粘度をもった流体が落下していく途中、その一瞬のかたちをとらえたということでしょうか。

人為を超えた流線の美が、北イタリアの霧を閉じ込めたように曇るガラスで表現されています。

ずっと観ていたくなるような不思議なリズムを感じました。

 

 

力作揃いの、とても素晴らしい内容の展覧会。

でも、疑問に感じるところもありました。

 

まず、タイトルです。

「跳躍するつくり手たち」では何がここで示されようとしているのか、さっぱりわからないのです。

英題は"Visionaries: Making Another Perspevtive"。

さらにわからない。

副題にある「人と自然の未来を見つめるアート、デザイン、テクノロジー」という文言も、お役所的抽象表現という感じがして、具体的な内容が何も伝わってこないのです。

 

また、ポスターなどにみられるアートワークは、鮮烈な色彩と形が組み合わされていて、よくみると「跳躍展」という文字が浮かんでくるようなデザイン。

これだけみると面白いんですが、では、このキービジュアルが、展覧会内容に直結しているかといえば、全然そういう感じを受けないのです。

展示されている作品の多くからは、アートワークにみられる単純な色彩の組み合わせとは真逆の、微妙な素材の持つ美しさ、仕事の緻密さが立ち現れています。

 

何が言いたいかというと、このタイトルとアートワークでは、本当に企画を届けたい鑑賞者に対する訴求力が乏しいのではないか、ということです。

タイトルのテキストもイメージも、展覧会の内容に直接つながっていない印象を受けてしまいました。

素晴らしい作品がたくさん並んでいるので、余計、まさに余計なお世話的心配をしたくなってしまいます。

 

 

もう一つの疑問は、展示会場の構成です。

 

なんとなく、既視感を覚えたのです。

東山キューブの奥から入って、直線的に仕切られた導線によって鑑賞者が「流されていく」かのようなルート。

これってひょっとすると、今年2月まで同じ場所で開催されていた「アンディ・ウォーホル」展のフレームをかなり引き継いでいるのではないか、と感じました。

前回展の枠組みを転用することは、まさにこの企画が意識しているという、「持続可能性」(個人的には使いたくない、いかがわしい言葉ではあります)に適ったことであり、コスト面でも合理的なので、大変結構なのですが、多彩な表情を持つ作品群の展示構成として、やや工夫が足りないという印象を受けてしまったのです。

各作家たちは「今」をそれぞれに創っているわけで、ウォーホル展のように「作家の歴史」を想定した、「流れを意識した導線」展示には必ずしも向いていないように思えます。

その意味では、かつて同じ会場で開かれた「平成美術展」のように、逆に「流れ」を遮るような会場構成にした方が良かったようにも感じました。

 

そして最大の疑問は、会場中央に設けられた映像上映空間です。

ウォーホル展では「銀の雲」を飛ばすために設営されたエリアだったと思うのですが、この展覧会では、参加アーティストたちへのインタビュー映像を映し出す間として使われています。

この空間に「作品を置かない」という選択をしたことに、とても疑問を感じるのです。

上映されている、作家たちの作業や語りをとらえた映像自体はとても面白いし、大きな画面で見る意義も理解できないわけではありませんが、かなり詰め込み気味の展示レイアウトを考えると、いかにも空間の使い方としてもったいない、と思いました。

もっと余裕、余白をもたせることによって美観が増幅する作品があったように感じます。

 

さらに、たまたま私が鑑賞した時だけだったのかもしれませんが、一部、ちゃんと本来の動作をしていないのではないか、と首を傾げざるを得ない作品もありました。

もしそうであれば、おそらくすぐに改善されるのでしょうから、あえて作品名の指摘はしませんけれど、意欲的なアクションを取り入れたアートとみられたので、やや残念ではありました。

 

ということで、いくつか疑問点はありましたが、繰り返しますが、作品自体はいずれもとても見応えのあるものばかりです。

会期が比較的長いので、再確認鑑賞してみるかもしれません。