河内長野の名刹、天野山金剛寺金堂の本尊、大日如来と、不動明王・降三世明王の三尊坐像は、普段、非公開です。
春の特別公開にあわせて鑑賞してきました。
今年2023年春季の公開は4月15日から18日までの4日間。
なお、5月3日から5日までは、これも国宝の「日月四季山水図屏風」が代わって公開されます。
昨年2022年、特に印象に残った展覧会があります。
京都国立博物館で開催された「河内長野の霊地 観心寺と金剛寺」展です。
両刃の聖剣や室町のアヴァンギャルド絵画「日月四季山水図屏風」など、名宝の数々が披露された好企画でした。
実は先日、柄にもなく、仁和寺の御室桜を観てきたのです。
今年は特に開花が早く、もう「遅咲きの桜」とはいえないくらい。
比較的ゆったり見物できた昨年とは違い、4月早々、「早咲きの御室桜」を目当てにたくさんの客が訪れていて、桜自体はとてもゆっくり楽しめる状況ではなかったのですが、境内で、ある案内に目が留まりました。
金剛寺、春の特別公開を宣伝するチラシです。
金剛寺は真言宗御室派、つまり仁和寺を総本山とする宗派に属する寺院です。
その関係でチラシが配布されていたのでしょう。
京博展の記憶もあったので、ちょっと因縁めいたものを感じ、今年は意を決して河内長野を目指すこととしたのでした。
さて、金剛寺は、とても有名な古刹ですけれど、特に近年、急速にその文化財価値を高めている寺院でもあります。
春と秋に特別公開される金堂内の大日如来・不動明王・降三世明王3躯が国宝指定されたのは、つい最近、2017年のことです。
その翌年、2018年には、「日月四季山水図屏風」も国宝化されます。
さらに2019年、「五仏堂」をはじめとする建築物22棟が一気に重要文化財指定されることになりました。
わずか3年余りの間に国宝・重文指定が相次いでいるのです。
これは、2009(平成21)年からおよそ9年間かけて、金剛寺全体で実施された「平成の大修理」が完了したことに起因しています。
多宝塔や金堂の大規模な解体修理等とともに、その間、金剛寺から京博や奈良博に移されていた大日如来他の仏像も、修理と調査が入念に実施され、文化財価値の再評価が進みました。
結果、現在、金剛寺は国宝5件、重要文化財29件を有し、同じく河内長野に存するご近所の名刹観心寺の国宝3件、重文35件と肩を並べる、大阪府下有数のお宝寺院となっています。
文化財の面から金剛寺をみた場合、大きく四つの画期が確認できると思います。
第一の画期は、実質的な創建時とみられる、高野山から出た僧阿観(1136-1207)が活躍した時代が相当します。
平安時代末期、源平争乱の時代に、莫大な相続財産をもって存在感を放っていた女性、八条院(暲子内親王 1137-1211)の帰依を阿観が受けたことにより、寺内の整備が進み堂塔諸仏が建立されたと推定されています。
全身、今も煌びやかに輝く大日如来は、同じく巨像である山科の安祥寺大日如来像(京博寄託)と比べると、とてもスマートなプロポーションをしています。
弘仁期から定朝様を経て院政期にかけて到達した平安仏の最終型とも言える大傑作です。
ところで、大日如来像から半世紀ほど時代が下った造立とみられる両明王像とともに、この三尊は「尊勝曼荼羅」を立体的に表現した唯一の現存例とされています。
ただ、これはちょっと不思議なことではあります。
災厄を消滅させる威力をもつという「尊勝曼荼羅」は、もともと、天台宗の智証大師円珍が初めて大陸から持ち帰った図像とされています。
金剛寺は真言宗、しかも金剛峯寺のお膝元にあり阿観自身、高野山で学んだ人です。
信仰の筋からみると、「混線」しているのではないかと疑問を感じます。
密教導入に関し、空海に遅れをとった天台宗は、円仁と円珍が入唐し、真言宗が所持していない密教秘術を大陸から導入しようと大変な苦労を重ねた経緯があります。
円珍がもたらした「尊勝曼荼羅」は、真言宗側からみれば、後発の台密側が手にした新システムであり、これを漫然と受け入れることに抵抗がなかったのかと想像してしまうです。
ただ、阿観の時代、円珍による図像の導入から相当に時間が経っていることもあり、もはや東密、台密を問わずこの強力な曼荼羅が尊ばれていたのかもしれません。
ちゃんと調べていないので憶測にすぎませんが。
次に金剛寺に訪れる画期、というか、厳密にいえば「災難」は、南北朝の動乱です。
南朝の後村上天皇(1328-1368)がここを行在所とし、一時、光厳、光明、崇光の北朝三上皇を寺内に幽閉するという事態が発生します。
南朝方の拠点として戦闘に巻き込まれ、被害も発生したわけですが、結果として、この争乱を起因として寺に残る文化財も生まれることになりました。
今でも残る、「天野殿」の異名をもつ食堂(じきどう)や摩尼院は南朝方、緑が美しい庭園をもつ観蔵院は北朝行在所に由緒をもっています。
特に南朝の政庁とされた食堂は室町時代前期の貴重な遺産として、格調高さを今に伝えています。
第三の画期は、桃山末期、慶長年間における豊臣秀頼による寺内の再整備事業です。
このとき、現在みられる金堂や多宝塔が大改造されています。
桃山様式の華麗な蟇股や彩色などの装飾が堂塔に施されることになりました。
「平成の大修理」は、金堂と多宝塔の解体修理が大きなイベントだったわけですが、このとき修復の目標となったのは、平安末期、当初の姿ではなく、桃山時代、改造後の姿です。
金剛寺多宝塔は、このカテゴリーの建築としては「日本最古」とされるものの、建立当初の姿である平安末期の雰囲気は、実は、あまり感じられません。
むしろ、鎌倉時代に建てられた石山寺多宝塔の方が「最古」というイメージを醸し出しているくらいではあります。
しかし、華麗に過剰な組物の存在感など、修復後の多宝塔も、独特の異形的美しさをもっていて、これはこれで見どころ満載の建築物です。
そして江戸時代、元禄期。
徳川綱吉の命を受けた和泉国岸和田藩主、岡部長泰(1650-1724)による堂宇の整備が行われます。
これにより、ほぼ現在みられる金剛寺の姿が定まりました。
平安末期、南北朝から室町初期、桃山末期、そして元禄期。
四つの画期的時代層が、それぞれに境内文化財を構成し、見事に融合している金剛寺。
その「多層構造」が生み出す美しさに、あらためて感銘を受けました。