ココ・カピタンが写した「境界」|KYOTOGRAPHIE

 

ココ・カピタン Ookini

■2023年4月15日〜5月14日(京都国際写真祭)
■ASPHODEL・大西清右衛門美術館・東福寺塔頭 光明院

 

今回のKYOTOGRAPHIEが提示しているキーワードは《BORDER=境界線》です。

海と土地、国と国、衣服と身体、あるいは写真と写真。

会場ではさまざまな意味の重みをもった「境界」がアーティストたちによって示されていますが、ココ・カピタン(Coco Capitán 1992-)がとらえた「境界」は中でも特にユニークな画像となって現れています。

 

www.kyotographie.jp

 

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ココ・カピタンは、KYOTOGRAPHIEによるアーティスト・イン・レジデンスに選ばれ、昨年の10月から12月にかけて京都に滞在しています。

AIRの成果を披露するという意味もあるのでしょう、規模は大きくありませんが、3つの会場がこの一人のアーティストに対し特例的にあてがわれています(ロエベ財団とハースト婦人画報社が協賛)。

 

被写体となっているのは、10代後半とみられる若者たちです。

テーマである《BORDER=境界線》に沿って、とても通俗的に解釈すれば、「子供」と「大人」の境界をモチーフにしたと言えるかもしれません。

 

しかし、いずれの写真からも、いわゆるベタな青春の一コマをとらえたような画像とは違う、奇妙な「緊張感」がうっすらと漂ってくるように思えるのです。

本当に面白い「境界」はむしろ、そこ、被写体と撮影者の間にあるのではないか、と私は解釈しています。

 

一見、普通にとられた肖像写真のように見えます。

 

でも、まず、重大な前提条件が思い浮かびました。

ここにみられるたくさんの人々を、このように撮影し、そして公に披露するということは、実は、現在、とても困難なことである、ということをです。

中には著名な釜師、あるいは狂言師のご子息といった半自動的に「特定可能」な個人の方も被写体になってはいますが、その多くは匿名のいわゆる「一般」の人々です。

何万人もの観客が写真祭において凝視する、その対象となることに被写体全員の同意を得ること自体に、相応のハードルがあったのではないか、と想像されます。

 

さらに、彼ら彼女らの多くは、「制服」を身に纏っています。

校章などからすぐ学校は特定できるでしょう。

修行僧の皆さんは妙心寺で学んでいることが公表されています。

当然に、所属している学校や寺院の承諾も撮影には必要だったと思われます。

 

つまり、展示されている写真は、「撮影前」に、多くの関係者の「覚悟」と一定の「手続き」が必要とされていた、ということになります。

ただ、もちろん、これらの前提条件が、写真自体から感じる「うっすらとした緊張感」の直接的な原因ではありません。

 

 

被写体となっている人々のほとんどが、視線をしっかりカメラに向けています。

中には微笑を浮かべていたり、少し気取った表情もうかがえます。

やや硬さが残っているような肖像もみられますけれど、その多くが、撮影者に対し胸襟を開き、素直にレンズへと向き合っているように、はじめは、感じられます。

 

ところが、よく一枚一枚の写真と向き合っていくと、本当に彼ら彼女たちは、ココ・カピタンに被写体として「全て」を委ねているのか、怪しく感じられてきます。

だんだん奇妙な違和感が伝わってくるのです。

 

これは決してネガティブな意味ではありません。

現実的な「素顔」を、この人たちは、実は、決してここで現してはいないのではないかという、とても「微妙に面白い緊張感」としての違和感なのです。

 

若者たちは、意識的に「素顔」を隠しているわけではないと思います。

ココ・カピタンに、最も「自分らしい」姿を提供しようとしていることははっきりしているように感じます。

にも関わらず、それとは知らずに、「素顔」と「虚像」の「境界」が、被写体と撮影者の間の「境界」と呼応するように、こっそり表面化しているのです。

 

 

おそらく家族や友達が撮影した普段着のスナップ写真等だった場合、彼ら彼女らは全く違う、それこそ「素」の表情を見せたと思います。

ココ・カピタンも当初は、ひょっとすると、そうした、京都にいる生の若者の素直にリアルな姿を写す企図があったのかもしれません。

 

しかし、写真家はある「制約」を巧に利用し、あえて、微妙な「境界」を抽出する方針を選んだようです。

その制約とは、「制服」(あるいはコスチューム)、です。

ここにみられる写真では、「制服」が特別な機能を発揮しています。

全くの個人ではない、何かに属している、あるいは特定の表象に囲まれている、そのことが、被写体に独特の、演技性と虚構性を、透明な被膜のように付帯させている、そんな風に感じられました。

 

写真群から感じる、奇妙にうっすらとした「緊張感」の正体は、これだと思います。

リアルが微妙に捨象されたゆえに生み出された、一回限りのデリケートな要素ともいえます。

 

この虚実の間、そのぎりぎりの「境界」を画像にとらえるということ、それこそが、写真家ココ・カピタン独特のセンス、テクニックなのでしょう。

とてもおもろしい写真を楽しませてもらいました。

 

 

セノグラフィーは3会場とも、小西啓睦が手がけています。

京都グラフィーでは実績のあるお馴染みのデザイナーです。

今回も各会場の特性を活かしながら、「場」と写真が響きあうような素晴らしい展示演出が行われていました。

 

縄手通のASPHODELではシンプルなモダン空間を活かしつつ、被写体がもつ若々しい爽やかさを活かした構成。

釜座三条の大西清右衛門美術館と東福寺の光明院では、和空間の制約を逆手にとって、写真を畳面に対して水平に設置し、柔和な光を作品に投影させる工夫が仕込まれています。

(なお、大西清右衛門美術館のみ、写真撮影NGです)

 



今回発表された写真群には「Ookini」というタイトルがつけられています。

ココ・カピタンは撮影のたびに、「Ookini」と被写体となった彼ら彼女たちに声をかけていたそうです。

 

でも、今、この謝意を表す関西弁を頻繁に使う若者は京都にはほとんどいません。

制服を纏った若者たちが、突如として秋の京都に現れた異邦人アーティストから、この古めかしい言葉を受け取ったときに、おそらく感じたであろう、可笑しさまじりの違和感。

それもココ・カピタンが写した「境界」の中にこっそり滲んでいるようにも思われました。

 

 


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