山科、御陵にある栗原邸が一般公開されたので見学してみました。
今回の公開は2023年5月27,28日と6月3,4日の4日間です。
一般公開を主催しているのは石田潤一郎京都工芸繊維大名誉教授を委員長とする「栗原邸保存研究会」とリビングヘリテージデザイン。
笠原一人 工繊大助教等が企画の中心となり、維持保存を目的とした一般公開が2005年から継続されています。
今回は約5年ぶりの公開。
入場料1000円(一般)も修復費用に充てられるそうです。
住所は山科区御陵大岩17-2。
地下鉄御陵駅から一旦三条通に出て東にちょっと進み、北側に伸びる細い坂道のところで左折、歩くこと10数分で到着します。
わかりやすい位置とはいえませんが、栗原邸に向かう坂はほぼ一本道なので迷うことはないと思います。
周辺は山科の山側にありがちな典型的な住宅地。
栗原邸の北には琵琶湖疏水が流れ、周囲には豊かな緑がみられます。
高台に南面した好立地に佇む初期モダニズム住居建築の傑作です。
ここはリビングヘリテージデザインの仲介によって買い手が募集されていますから、立派な売り出し中の不動産です。
お金があればすぐ買いたくなるような素敵な物件。
ある不動産仲介業者の広告には売却価格が示されています。
駅からも徒歩圏内にある市内の大型住宅として、十分妥当な価格と思えます。
でも、まだ買い手はついていないようです。
理由の一つとして考えられることは、この場所の立地条件にありそうです。
三条通から館につながる坂道は狭く、ここに住みそうな人が乗るであろう大型高級車では、豪快にスピードを出すことはできそうにありません。
また国の登録有形文化財ですから、勝手に改変することも難しく、大胆なリフォーム、ましてや建て替えなどは売却条件上も、禁止されているものと思います。
近代建築保存に理解があり、多少の不便を我慢しつつ、自家用車は小型車で済ませるという奇特なお金持ちは、簡単には出現しないかもしれません。
建物は使われなくなると朽ちていきます。
継承者の出現に期待したいところです。
とはいえ、売買が成立してしまったら、もう滅多に一般公開はされないのでしょうから、一鑑賞者としてはなんともいえない状況ではあります。
昨年開催され大盛況となった「京都モダン建築祭」の余韻が残っているのでしょうか。
いかにも地味でアクセスもやや面倒なこの邸宅に、休日とはいえ、かなりの人が訪れていて、玄関には見学者の靴がびっしり並んでいました。
なお、事前予約は必要ありません。
本野精吾(1882-1944)が設計した数少ない建築作品の一つです。
完成は1929(昭和4)年。
施主は鶴巻鶴一(1873-1942)。
京都染織学校、京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)の校長を務めた人物です。
天平時代の染色技法、臈纈染を復活させたことでも知られる染織界の偉人、鶴巻は、なぜこんな当時としては極めて斬新なコンクリート造の自邸を本野精吾に発注したのでしょうか。
本野は同じ学校の建築学教授でしたから、仕事を任せること自体に不思議は何もありません。
しかし、ここにみられるおよそ日本人離れしたモダン&アールデコスタイルの建築は、かなり施主としての鶴巻の意思、趣向が建築家のそれと同調しなければ成立しないのではないかとみられます。
鶴巻鶴一は新潟で生まれ、東京帝大に学んだ人です。
ドイツに留学した経験をもっています。
本野精吾もドイツに学び、特にペーター・ベーレンス(Peter Behrens 1868-1940)の影響を強く受けたとされています。
鶴巻、本野、ベーレンス、この三人は、明治から戦前までを生きたほぼ同時代人です。
鶴巻も本野もドイツで味わった当時のモダニズム建築、デザインへの趣向を共通のセンスとして持っていたのでしょう。
京都の大学人たちが好んで住んだ北白川あたりではなく、山科盆地を見渡す御陵の高台に場所を選んだことも、この建築成立に大きく影響しているように思われます。
建設当初はまだ近隣に住宅が密集することもなく、コンクリート剥き出しの旧鶴巻邸は疏水の流れを背後に持ちながら、爽快なモダニズムを主張していたと想像できそうです。
建物の顔ともいえる半円形の玄関ホール。
その上にのる2階正面のサンルームは南側に曲線を描く窓を持ち、盆地の絶景を鑑賞するために設計されているかのようです。
ただ、この景観を得るために犠牲になっている要素もあります。
「庭」です。
旧鶴巻邸には、例えばこの二年前、1927(昭和2)年に完成した駒井卓京都帝大教授の居宅(ヴォーリズ設計)のような、魅力的な庭がありません。
周囲はほとんど斜面ですから、立地上、広い庭を造成することができなかったのでしょう。
鶴巻一家は、庭いじりより山科盆地の全景を優先したようです。
しかし、ここにはおそらく「庭」の代わりになったと思われる空間もあります。
「屋上」です。
旧鶴巻邸には2階から屋上に出るための階段が贅沢に設けられています。
煙突掃除や洗濯物を干すためだけなら、こんなに手の込んだ階段は要らないでしょう。
屋上空間を楽しむために、そのアプローチの手段である階段のデザインも重要だったのです。
さすがにバーベーキューはしなかったと思われますが、十分、開放感を味わえる「屋上庭」としての機能を持っていたと思われます。
鶴巻鶴一が逝去する前年、1941(昭和16)年、この邸宅は栗原伸(広告代理店萬年社の三代目社長)に譲渡され、現在も栗原家の所有となっています。
ほとんど鶴巻邸時代から変わらない状態を保っているようです。
それだけ本野精吾のモダニズムが力強いものだった、ということなのかもしれません。