恐ろしいほど美しい 幕末土佐の天才絵師 絵金
■2023年4月22日~6月18日
■あべのハルカス美術館
絵金(えきん 「絵師の金蔵」1812-1876)は土佐で活躍した絵師です。
地元である高知県の外で開催される彼の大規模回顧展は、約半世紀ぶりなのだそうです。
月岡芳年あたりを頭目として、このところ不気味に継続している「血みどろ」系美術ブームに連なる企画といえるのでしょう。
意外に女性客の数が多いことがこの系統の展覧会には共通していて、天王寺の会場にも熱心に見入る女性鑑賞者の姿が目立ちました。
「絵金」が広く知られるようになったきっかけは1966年、雑誌『太陽』が組んだこの絵師の特集企画でした。
1970年には東京・大阪で絵金展が開催されたそうです。
今回の特別展は、このとき起こったとされる第一次絵金ブーム以来の高知県外展。
故に「半世紀ぶり」と喧伝されているわけです。
血みどろ絵が何故か好まれる昨今、十分、東京でもウケそうな内容なのですが、本展は大阪のみの開催。
残念ながら他所への巡回はありません。
この展覧会で初めて絵金を観ました。
したたる血飛沫、醜く膨れ上がった奇怪な面相、青白く変色した生首。
期待通り、グロさ満点の幕末絵画が並んでいます。
しかし、不思議と見終わった後に残った気分は、カラッとした陽性の爽快感でした。
例えば、月岡芳年と落合芳幾による幕末無惨浮世絵の傑作「英名二十八衆句」からは、なんともいえない、人間の業そのものが描かれたような陰惨美を感じます。
とても爽快な気分で鑑賞し終わることはできません。
ところが、内容としては、こちらも十分すぎるほど無惨である絵金の作品からは、そうした気配が実はさほど感じられないのです。
二種類の無惨絵から生じる、この気分の違いはどこからきているのでしょうか。
それは、絵金による血みどろ絵の大半が、「芝居そのもの」を描いているから、と考えています。
「英名二十八衆句」も芝居絵の一種です。
でも、芳年&芳幾が描いた浮世絵は、芝居の一場面を化体としてはいるものの、主題自体は、無惨に非業の最期を迎える者、あるいは目を覆いたくなるような悪事を平気で実行する人物たちの凄まじい有り様。
つまり芝居そのものよりも、「キャラクター」の存在に焦点があてられています。
他方、絵金の作品が表す内容は、「芝居の場面」そのものなのです。
どんなに残酷な図像が示されていても、観る側はそれが芝居の世界で繰り広げられている一場面であることを承知しています。
極端にデフォルメされた人物の姿勢や表情も、ある意味、芝居絵のお約束であり、グロテスクさも含め「パターン」の一つとして浮かび上がってきます。
これは、芳年絵等の中で典型的にみられる、苦悶に喘ぐヒーローやヒロインの「業」とは違う性質の画像です。
だからといって、絵金の芝居絵がつまらない、というわけでは全くありません。
むしろ逆に、お馴染みの芝居演目世界を、驚異的な描画テクニックと生々しい色彩、そして奇想天外な構想で再創造してしまっているその才能に驚き、圧倒されるのです。
例えば、石川五右衛門を主人公とした芝居「釜淵双級巴(かまぶちふたつどもえ)」を描いた連作。
釜茹でになる五右衛門の断末魔が描かれた場面で終わるかと思いきや、なんと、処刑のあと、釜から取り出される五右衛門の死体が描かれた一枚が最後に置かれています。
熱した油が使われたとされますから、まさに「五右衛門の素揚げ」です。
その即物的な図像に一瞬ひるみますが、やはり後に残るのはカラッとした感覚です。
発想自体がユニークすぎるのです。
絵金の屏風絵は一種のコミュニケーション・メディアとしても機能していたのかもしれません。
絵の発注者は土佐の商人、大旦那たちだったそうです。
祭礼の際に陳列された絵金の芝居絵を前に、見物客たちはそれがどんな芝居の、どの場面を描いているのか、多いに語り合ったであろうし、そのあまりにも生々しい描画に、まるで芝居そのものを見せられているような興奮を味わったのではないでしょうか。
祭りで絵金作品が評判になればなるほど、注文主の旦那衆はプロデューサーとして自慢げに大喜びしたと思います。
絵金の屏風は、絵画というより、土佐の人たちにとって、「映画」に近い効果を発揮していたのではないか、とも感じられました。
会場では、実際、現在も行われている祭礼の場で、絵金作品がどのように飾られているか、再現が試みられていました。
白っぽいナチュラルな照明色と、提灯や蝋燭をイメージした暖色系のライトが交互に切り替えられる演出。
見比べると随分イメージが違います。
神社の舞台等で飾られる芝居絵は、ほの暗くチラチラと陰影を生み出す灯りに照らされるはずです。
おどろおどろしい絵金絵画は、そこではまさに「動く」ような気配を現出させたのではないでしょうか。
不気味に蠢く屏風絵を前に、芝居好きの連中が講談師よろしく観客にストーリーを語っていたとすれば、それは、ほとんど「映画」と同じ効果を生んでいたかもしれません。
会場では、実際に絵金作品が展示される祭礼の様子が映像で紹介されていました。
土佐の人たちが連綿と受け継いできた芝居熱というか、独特の感性に驚きます。
映像の中に、とても印象深い、ある神社が登場します。
会場では、この神社がもつ装置、「手長足長絵馬台」の一部が実際に組まれ、絵金作品が展示されていました。
まるで絵そのものを舞台化したようなフレーム。
絵金の刺激的な図像は、八王子宮という「館」で「上映」されていたかのような景色を生み出していたとも考えられます。
実は、八王子宮がある土佐山田町は、日本映画史にも登場してくる有名な場所です。
ここは昭和前期、日本で初めて「ブルーフィルム」、つまり「やばい映画」が制作された中心地なのです。
「海老沢グループ」、あるいは「土佐のクロサワ」ともいわれた地下映画人のような人々は土佐山田を主なロケ地として活動していたとされています。
「にっかつ」が制作する遥か以前に、土佐山田では当時としては先鋭な官能作品が密かに創られていたことになります(実際の作品を観たことはありませんけれど)。
ひょっとするとこの「海老沢グループ」には、絵金の芝居絵を、祭りの場などで、幼い頃から楽しんでいた人たちが含まれていたのではないでしょうか。
絵金が創造したピクチャレスクな画像世界が、昭和官能師たちの素地を成していたとしても不思議ではありません。
幕末の血みどろ芝居絵と、昭和前期の日本初となる官能映画。
土佐という場所がもっていたとても奥深く強烈な「熱」を感じます。