先週末から話題作「怪物」が公開されています。
そろそろ落ち着いてきた頃かもと思い、鑑賞してみました。
「湖のある静かな街」が舞台、と予告編で紹介されています。
本編ではその湖が「諏訪湖」であることが冒頭から映像でしっかり示されていました。
諏訪市や下諏訪町等によるロケ協力態勢が十全に機能していたのでしょう。
ビル火災などの描写を含め、驚くほど不自然さが感じられない情景が展開されていきます。
しかし是枝裕和は、諏訪湖やその周辺地域を、個性的な、ローカルな場所として特に強調してはいません。
JR上諏訪駅前が実際よりも賑やかにみえます。
上諏訪にある有名な共同浴場などが風景として挿入されたりはしますが、いずれもロケ協力に対するご当地への返礼シーンといった域を出てはいないようです。
概ね「諏訪」の個性は薄められていて、登場人物たちの口からこの地名が発せられることもなかったと思います。
この監督は、特定の場所にこだわることをむしろ避け、どこにでもありそうな日本の一地方都市がもつ空気感を大切にしながら、「湖」「学校と住宅地」「山の中」という垂直方向に三世界を背景にもつ、立体的舞台を作りあげることを企図したのでしょう。
立体的な空間設定は、そのまま、登場人物たちの行動に対する変化に富んだカメラのあて方につながり、世界が多層化していきます。
また、幾重にも人物たちの行動や心情が重ねられては錯綜するこの映画の中で、唯一、揺らぐことのない鏡のような存在として「湖」があることが、物語の底を支えているようにも感じられました。
とても舞台設定が巧妙な映画です。
今年3月に亡くなった坂本龍一が音楽を提供しています。
本作が彼による最後の映画音楽となりました。
ピアノを主体としたこの人らしいリリカルなメロディー。
無駄が省かれ、旋律の透明感が最優先されているかのような音楽が、ときおり控えめに情景を包みます。
とりわけ印象的に奏でられる音楽がありました。
明らかにグレゴリオ聖歌「怒りの日」が意識されていると思われる、冒頭に響くピアノの旋律。
"Dies irae"の最初の音形が6音あたりまで使われたところで、以後は全くこの曲とは別の音程に遷移し、オリジナルの旋律に変化します。
すでに晩期にさしかかっていたのであろう作曲家が、この映画の内容をどこまで血肉化していたのかは、正直、よくわかりません。
しかし、これほどシンプルかつスマートに映画のメタファーとして成立した音楽も珍しいのではないか、と感じました。
誰でも知っている「怒りの日」、「ディエス・イレ」の旋律。
坂本の音楽は、その旋律を完全引用するかと思わせながら、予想外のところで変異させ、全体としては、ぼんやりとした詩情性をたたえながら、終わるのか終わらないのか、判然としないラインを描きながら流れていきます。
この映画も、「怒り」が怒りとして収まるところに収まらず、情景が多層なディメンションを移ろいながら、誰もが得心できる大団円らしい光景をもたないまま終わります。
音楽が映画そのものを見事に暗示しているのです。
安藤サクラ演じる母親によって、まず、観客に提示される明白な「怒り」。
彼女が学校関係者たちに向けるその感情は、教師による息子への加虐という、大多数の観客が共有せざるを得ない、圧倒的な理由に裏打ちされ、強烈かつ入念に描かれています。
他方、母親を苛立たせながらその「怒り」に全く向き合おうとしない田中裕子演じる校長や教師たちには、ハネケの「ファニーゲーム」並の不快感を覚えたりもします。
しかし、これが是枝裕和&坂元裕二が仕掛けた「怒りの日の罠」であることに気がつく人は、俳優たちの驚異的な演技力の見事さもあり、この時点ではほとんどいないでしょう。
"di"-"es"-"i"-"rae"、"di"-"es"・・・・
安藤サクラが火をつけた「怒りの日」は、坂本龍一の音楽と同様、完全燃焼するどころか、ある種の優しさや諦観すら含みつつ多次元を漂流し、善悪の彼岸に向けて雲散霧消してしまいます。
驚くベきことに、この映画に登場する人物たちは、ほぼ例外なく、普通なら一般の「怒り」をかってしかるべきことを実行しています。
十分犯罪として成立するとみられる凶事も描かれています。
しかし、結局、誰一人、直接的な「罰」を受けることはありません。
懺悔の代わりに響く音は、ブーブーとまるで修験道の場で奏されるようなホルンとトロンボーンによる「息」。
そして、後に残されるのは、坂本龍一のポツリポツリとしたピアノの楽音だけです。
カンヌで脚本賞を取った坂元裕二のシナリオは、ある一つの出来事を、時間を複数次元に分解し、リピートして再現していくという構成をとっています。
この手法は最近流行っているのでしょうか、近年鑑賞した範囲だけでも、ドミニク・モルの「悪なき殺人」( Seules les bêtes,2019)や、片山慎三の「さがす」(2022)が同様の構造を採用していて、犯罪映画らしい効果をあげていました。
なお、こうした手法を「羅生門スタイル」ということもあるようですが、正確な表現ではないように思います。
「羅生門」で描かれているものは、「視点を変えた時間の反復」ではなく、各々の「心象そのもの」がもつ多面性です。
「怪物」はミステリーでもサスペンスでもありません。
にも関わらず、あえて、このやや使い古されてしまった時間リピート手法が用いられた背後には、観客に「わかりやすさの罠」を提示してみせようという、監督&脚本家の濃密な企みが仕掛けられています。
ヒリヒリするくらいコンフリクトを起こしていく、母の立場、教師の立場、校長の立場、少年たちの立場。
しかし、多角的な視点を照射してみると、実は、彼ら彼女らが、それぞれの時間軸の中ではとてもわかりやすい、合理的といっても良いほどの行動と心情をみせていたことが、次第に明らかにされていきます。
観客にとってみると、映画の中で時間が繰り返されることによって、「真の出来事」が形を成していく、一種の快感がまず味わえると思います。
ところが、実は、この「快感」こそ、観ている人間が「罠にはまった状況」そのものなのです。
3回リピートされる時間によって、どうやら「出来事」の全体像が浮かび上がってはきます。
しかし、結局、少年たちの姿は玉虫色に変化し続けているし、周囲の大人たちも「答えを得た」という状況にはとても至ってはいません。
ましてや、わかりやすい「罰」すら受けていないのです。
「出来事」はわかったとしても、「正体」はわかりません。
わかった、という「快感」が、実は何もわかっていないという結果につながります。
これが「わかりやすさの罠」であり、この映画の本質的なテーマだと思いました。
「伏線回収」テクニックにのみ欣喜雀躍としている昨今の鑑賞者たちをこっそり嘲笑うかのような映画でもあります。
物語の最後、一見、新しい世界に歓喜をもって跳躍したかのようにみえる少年たち。
でも、アートワークに使用されている彼らの表情からは、その世界が、直ちに崩壊してしまったことが伺えます。
この映画ほど、ポスターの印象が鑑賞前と後で変わってしまう作品も珍しいでしょう。
全く、世界は「わかりにくい」ままであり、誰もが「怪物」のままです。
是枝&坂元コンビは、あえて陳腐ともいえるリピート手法を用いて、観客に「わかった」という感覚のもつ罠を示唆しているように感じられました。
そして坂本龍一の音楽も、「完全終止」とはほど遠い、柔らかな彷徨感の中に消えていきます。