没後30年 木下佳通代
■2024年5月25日〜8月18日
■大阪中之島美術館
1994年9月19日、乳癌のために55歳の若さで亡くなったアーティスト、木下佳通代(1939-1994)の非常に大規模なレトロスペクティヴです。
初期作品からホスピス(神戸アドベンチスト病院)で描いた絶筆、かつて同志社田辺キャンパスのラーネッド記念図書館に夫の奥田善巳(1931-2011)の作品と並んで飾られていた超巨大絵画まで、一気にこの人の芸術をたどることができる圧倒的に素晴らしい展覧会でした。
神戸市(現長田区)に生まれ、京都市立美術大学(現京都市立芸術大学)で学び、主に神戸や京都のギャラリーなどで作品を発表してきた木下の来歴を考えると、兵庫県立美術館や京都市美術館が開催してもおかしくない企画です。
実際、両館の所蔵する木下の作品がこの展覧会には複数出展されています。
他方、大阪中之島美術館は、その長い準備室時代にあった90年代頃から、積極的に木下佳通代の作品を収集していて、今回の回顧展でも70年代の実験的な写真作品から未完となった最後の作品まで、幅広く同館の収蔵品が紹介されています。
コレクションの規模としては兵庫県美や京都市美を上回っているかもしれません。
ちょっと意外な感じを受けましたが関西での没後記念展を開催する場所としてここが今は最も相応しいミュージアムなのでしょう。
関連する大変貴重な資料も豊富に取り揃えられていて、この企画に臨んだキュレーターたちの熱意が伝わってくるような好企画だと思います。
1958年から4年間を過ごした京都美大時代、木下は洋画科の重鎮教授、黒田重太郎(1887-1970)や須田国太郎(1891-1961)に学んでいます。
初期の油彩画にはいかにも黒田の作風を真似たようなキュビスム的人物画があり、重々しい植物の色彩表現には須田の影響も感じられます。
しかし木下がむしろ親近感を抱いたのは同じ大学の彫刻科で教鞭をとっていた辻晉堂(1910-1981)や堀内正和(1911-2001)の方だったそうです。
その後の木下の歩みを展観すると辻と堀内の影響はかなり大きかったようにも思えます。
1973年に発表されたビーカー群を写した写真作品があります(Untitled/む60(ビーカー))。
上のビーカーには水とみられる液体が入れられ、全く同じアングルで写された下のビーカーには温度計が挿入されています。
それだけの写真です。
ところが何枚も並べられているこの連作を左から右に眺めていくと、下のビーカーにさされた温度計の示す温度がだんだん低下していることに気が付きます。
この「気が付く」ということが実は問題になっている作品です。
ほとんど差異がないビーカーたちの中で唯一、「変化」が感じとれる要素、それが「温度」です。
鑑賞者は何も変化しない写真群の中にある種の不安を感じてきます。
そこで、すがるように見つけてしまうのが「温度」を示す温度計の目盛なのです。
時間の経過とともに下がっている温度に鑑賞者の脳はようやく安心感を得ることになります。
人は何を「認知する」のか、もっといえば何を「認知したがるのか」が問いかけられている作品です。
こういういかにも頭でっかちな、コンセプチュアルな作品が私は大好きです。
木下佳通代が哲学をどの程度本格的に学んだのかはよくわかりません。
ただ、彼女の70年代を代表する写真作品からは「認知」や「存在」という哲学的キーワードをどうしても連想してしまいます。
この展覧会のキービジュアルにも採用されているコンパスで円を描くところが写された作品では、コンパスによって描かれている図形は「楕円」として視認されるのに、頭の中、つまり「認知」のレベルでは歪みのない「円」として像を結んでいることがフェルトペンで示されています。
一見、非常にシンプルでわかりやすい作品です。
しかし、「認知」されているフェルトペンで描かれた「円」も哲学的にいえば真の「円」ではありません。
本当の意味での「円」は「色」も「線」も必要としていません。
プラトンが言ったこうした「イデアとしての円」は作品の中には当然のことながら描くことはできないのです。
ところが、コンパスが描いた円とフェルトペンで描かれた円の間を何度も頭の中で往復しているうちに、絶対に物理的に描くことができない「理想としての円」が浮かんでくるようにも感じられます。
とはいえ、その脳内に浮かんできた理想の円は「存在」していると言えるのでしょうか。
眼と頭がぐるぐる回転してしまい収拾がつかなくなってきました。
「物自体」を認識することはできないと語ったカントの哲学までもが遙か遠くから響いてくるようです。
1981年、木下佳通代はハイデルベルク・クンストフェライン(Heidelberger Kunstverein)に招かれ同地で個展を開催することになります。
当時、展覧会部門の芸術監督であったハンス・ゲルク(Hans Gercke 1941-)が木下の写真作品を高く評価したことから実現した企画だったそうです。
ハイデルベルク展のポスターと展示風景を記録した映像等が紹介されていました。
しかし、80年代になると木下はもう70年代の写真を中心としたアート制作から離れつつありました。
ハンス・ゲルクはおそらく木下の写真作品がもつ哲学的な面白さに惹かれていたのでしょう。
でも木下自身は、延々とそんな小難しいことを考え続けることに、皮肉にも、そろそろ一種の逼塞感を覚えていたようです。
写真という手段を離れ、パステル画に一旦遷移した後、ついに木下佳通代の後期を代表する油彩・カンヴァス作品が登場します。
カンヴァスに塗られた絵具を拭き取ることで現れる抽象的なざらりとした色彩と質感が特徴的な80年代以降の作品からは、極めて理念的に制作された70年代作品とは真逆の印象を、一瞬、受けます。
しかし、新たに木下がたどりついた油彩画からは別の哲学的響きが聞こえてきます。
ヴィトゲンシュタインが彼の後期に使った「ザラザラした大地へ戻れ」という言葉をすぐに想起してしまいました。
プラトン的な円の「イデア」世界からアリストテレス的な「形相と質料」の世界への転換とも考えられるでしょうか。
こんな風に木下芸術を哲学に結びつけて鑑賞してしまうこと自体が無意味で俗っぽい解釈なのかもしれませんが、「存在」に強くこだわっていた彼女の核に迫ろうとすると、どうしてもさまざまな哲学者の名前が浮かんできてしまうのです。
90年代に入ると木下佳通代の作風はどんどんある種の「透明感」を帯びてくるように感じられます。
50歳代に入ったばかりですから、かつての老巨匠たちがたどりついた清透な美意識のようなものとは違うのでしょうけれど、病を得たことが全く作風に影響しなかったとはいえないようにも思えます。
抽象性は十分保たれていますが、どこか「形」を感じさせる作品が増えてきているようにもみえます。
ご存命であれば今年85歳。
まだまだ作品が残せる年齢です。
木下佳通代が「ザラザラした大地」の後、どういう「存在」を問うていこうとしたのか、やわらかい石柱のような造形が示された絶筆の小品をみながらぼんやり考えてしまいました。
美術館5階をまるまる使い、大型作品もゆったりと展示されています。
大阪中之島美術館が次回の企画でとりあげる塩田千春ほどに知名度があるアーティストではありませんから混雑害とはほとんど無縁だと思います。
実際、とても快適に鑑賞することができました。
写真撮影が全面的にOKな展覧会です。
なお、この企画展は2024年10月12日から2025年1月13日かけて埼玉県立近代美術館に巡回する予定となっています。