幸野楳嶺の「怨霊」とは|京都芸大〈はじめて〉物語展

 

京都市立芸術大学芸術資料館移転記念特別展 
京都芸大〈はじめて〉物語第2期
「日本最初京都画学校」ー京都御苑からの出発ー

■2024年6月15日~8月12日

 

京都芸大の塩小路キャンパスへの移転記念展シリーズ。
その第二回目です。

華やかな大正期京都画壇を牽引した卒業生たちの特集であった第1回展「カイセン始動ス!」から、今回は時代を明治期に遡りこの大学のルーツである「京都府画学校」の設立に焦点があてられています。

展示品自体は第1回展に比べるとかなり地味ですが、日本初の公立美術学校設立に関する貴重な資料等がわかりやすく展示されていて、近代京都画壇黎明期の様相、その一端が生々しく伝わってくるような充実した内容に仕上がっていると思いました(無料)。

libmuse.kcua.ac.jp

 

1880(明治13)年、三条実美によって「日本最初京都画学校」と威勢よく命名されて発足した京都府画学校。
でも、日本で最初の官営美術教育機関はその4年前の1876(明治9)年、東京に開設された「工部美術学校」ですから、実美のいう「日本最初」という言い方は一見、正確性を欠くように思えます。
ただ工部美術学校は西洋美術を専門とし日本画は除外され、教師陣も外国人が中心でした。
日本人教師によるこの国の伝統を意識した絵画専門学校としては「日本最初」であると実美は表現したかったのでしょう。
ちなみに工部美術学校は1883(明治16)年には早くも廃校になってしまいしたから、現在にも続く公立美術教育機関としては京都府画学校を継承した京都市立芸術大学が紛れもなく日本初ということになります。

 

田能村直入「春景山水図」(部分)(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)

 

さて、京都での近代的な画学校設立を最初に提言した人物は実は京都画壇の人ではありません。
専ら大阪で活躍していた文人、田能村直入(1814-1907)です。
彼は養父だった田能村竹田(1777-1835)の遺志を受け継ぎ画学校の創設を強く目論んでいました。
本来なら大阪でその設立を目指したかったのかもしれませんが、京都の近代化を急激に進めていた当時の知事槇村正直(1834-1896)に期待し、「画学校起校上書」を彼に提出することになります。

この直入の動きとリンクするように行動を起こしたのが京都画壇の幸野楳嶺(1844-1895)と久保田米遷(1852-1906)でした。
二人は望月玉泉(1834-1913)と巨勢小石(1843-1919)にも声をかけ4名連署で槇村知事に画学校設立の建議書を提出。
田能村直入の建議から1ヶ月後のことでした。

直入と楳嶺、二人それぞれの建議文が会場内に掲示されています。
直入が、養父竹田の夢見ていた文人的な深い学びの場としての絵画教育機関設立を比較的穏やかに説いているのに対し、楳嶺は「画は百技の長である」とまず高らかに宣言しつつ、当時余技的遊興の一種ともとらえられていた絵画芸術の重要性とその専門技術教育の必要性を熱く述べています。
さらに楳嶺は、西洋画の教育も視野に入れ、漢画や諸流派をも幅広く取り込んだ学校を構想していたことが記されています。
伝統的南画教育をおそらく念頭においていた田能村直入に対し、近代的かつ現実的な幸野楳嶺の姿勢をみると、画学校設立という共通目標はあったにせよ、両者には明確な思想的違いがあったようです。

 

画学校開学建議書(京都市立芸術大学芸術資料館蔵)

 

田能村直入は京都府画学校が設立されると校長にあたる初代摂理に就任しますが、諸流派の対立を調整することができず結局1884(明治17)年にはこの職を辞してしまいました。
しかし辞した後も京都府画学校への深い愛情は継続していたのでしょう、1887(明治20)年には自身が所蔵していた明清代の中国書画等を学校に寄贈しています。
これが京都市立芸術大学最初の「コレクション」になりました。
この企画展では直入が寄贈した格調高い中国書画が何点か展示されています。
直入は結果的に京都芸大芸術資料館、その最初の館蔵品をもたらした恩人でもあるわけです。

一方、幸野楳嶺については会場内に掲示されているコラム板の中に、ある興味深いエピソードが記載されています。
画学校設立に向け異様な情熱をもち、多数の画家たちの賛同を得るために走り回っていた楳嶺は多忙のため吐血するまでに体調を崩してしまいました。
そんな中、盟友の久保田米遷に「今私が死んだら、怨霊となって画学校開校を妨害した画家たちを蹴り殺し、陰から学校を守る」と語ったのだそうです。
多くの弟子たちに慕われた教育者としてどことなく温雅な性格を想像してしまう幸野楳嶺ですが、「怨霊」だの「蹴り殺す」だのといった物騒な表現が使われたこの言葉からは彼が秘めていた非常に激しい気性と画学校創設への壮絶な執念が感じられます。
コラムは「楳嶺の遺志は今も京都芸大を守っているのかもしれない」と結んでいました。

 

www.kcua.ac.jp

 

ここでちょっと面白いことに気がつきました。
京都芸大の新キャンパス内において美術学部やこの芸術資料館が入る「C棟」は河原町塩小路の交差点、南西の角に建っています。
C棟がその交差点に接する部分、つまり建物の北東=鬼門にあたるコーナーには、まるで京都御所東本願寺の塀に造作された「缺け(かけ)」が設けられているようにみえるのです。
単に建築法規上の措置なのかもしれませんが、これはまるで「鬼門除け」です。
その凹んだスペースの上に建立されている彫像があります。
それがなんと幸野楳嶺の胸像なのです。
鬼門除けによって出来た空間に屹立する楳嶺像の表情からは厳しさと優しさを兼備したような品格が漂います。
たしかにこの偉大な画家にして教育者は京都芸大の守護神として今も目を光らせているのかもしれません。

京都市立芸術大学C棟北東角に建つ幸野楳嶺像

幸野楳嶺「菅原院春月図」(部分)(個人蔵)