大いなる不在|近浦啓 

 

ギャガの配給で近浦啓(1977-)監督による話題作「大いなる不在」(2023)が7月中旬から劇場公開されています。

個人的にちょっと苦手な「壊れていく人」系の映画なので鑑賞するかどうか迷っていましたが、演技巧者が揃った俳優陣が気になり鑑賞してみました。

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「不在」の意味自体を問いかけてくるような映画です。

「不在」は、「存在」が前提となっている言葉です。
はじめから存在していないものに対して「不在」とは言いません。

「死者」はその存在と関わってきた人にとってみるとわかりやすく絶対的に大きな「不在」です。
「失踪者」は、姿が見えなくなっているという面で死者と同じともいえますが、再び存在者として帰還するかもしれないという可能性がある点が大きく異なります。
この映画がテーマとしている「不在」は、死者でも失踪者のことでもありません。
肉体的には紛れもなく存在しているのに、もはや帰還する可能性がほとんどないという「不在」を中心に、さまざまな「不在」が描かれています。

主人公である卓(森山未來)が父陽二(藤竜也)のことを語る印象的なセリフがあります。
「父は別の世界にいってしまったというか...」
少し逡巡しながら卓が発するこの言葉の中に、第三の大きな「不在」ともいうべき状況が示されています。

認知症をテーマとした近作映画にギャスパー・ノエが監督した「VORTEX ヴォルテックス」(2022)があります。
夫(ダリオ・アルジェント)と認知症を発症した妻(フランソワーズ・ルブラン)を描いたこの映画の中で、ノエは画面自体を二つに分割してしまうことで、老夫婦の「世界」が別々のものになってしまった状況を極めて冷酷かつリアルに描いていました。
互いの見た目は変わらないのに、存在している世界そのものが違ってしまうという状況。
これは発症者からも、発症者していない者からもお互いを「不在」と捉えるしかない事態といえます。

 


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ある日突然、「世界」が完全に分裂してしまうのであれば、認知症が引き起こすこの「不在」という事態も、ある意味、わかりやすいといえるかもしれません。
しかしこの病には残酷なグラデーションのようなものがあるのでしょう。
進行の程度とスピードに差があるとはいえ、徐々に「世界」が分離していくようです。
これも死や失踪とは違う、認知症特有の「不在」性といえるかもしれません。

この「大いなる不在」が描いていることは、当事者たちにとって、「世界」自体が異質化し消失していくという、その「大いなる不在」性です。

ギャスパー・ノエが画面分割というアクロバティックな手法で表した認知症による別世界化の様相を、近浦啓は物語の時間軸を分断分割し「別並走」させるという構造によって巧みに表現しています。
全くサスペンス映画ではないにも関わらず、そのようにみせかけることもできるこうした手法は予告篇においてその効果を別の意味で発揮していたようです。

 


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陽二が決定的な行動を起こし施設に収容され「別世界人」になった姿を冒頭に置いた後、映画はそこに至るまでの過程を、回想という陳腐なスタイルではなく、時間軸自体をプツリプツリと寸断しながら別に並列して挿入することでトレースしていきます。
結果として陽二に起こる「別世界化」が単純に段階的に進行していったのではないことが非常にリアルに伝わってくるように感じられました。
白い状態から灰色が増していって黒になる、というようなわかりやすい変化ではないのです。
陽二にとってのそれまでの「世界」は、プツリ、プツリと、まるで穴が開くように違った世界に入れ替わっていきます。
そうした残酷なプロセスを表現し尽くした藤竜也の演技に圧倒されました。

 


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陽二にとって息子である卓は30年近くほとんど接触がなかったわけですから、その間、「不在」だったことになります。
他方、発症してから認知症の父と向き合った卓にとって、陽二はすでに世界を別にしているという意味で「不在」です。
別世界人化した陽二のもとを去った妻直美(原日出子)はその姿を妹以外の家族から隠すことで自らを「不在」化させます。
どれも「大いなる不在」といえるかもしれません。

映画は卓が「大いなる不在」を自分なりに受け入れたような、あるいは「海」にそれを溶け込ませたかのような静かな終結を迎えます。
しかし、この一見大団円的に見える最後になって、近浦監督が意地悪く仕掛けた「時代」の無慈悲さが頭をもたげてきます。

冒頭近く、俳優として東京に暮らす卓が歩いていた道路には「TOKYO2020」のロゴをつけたタクシーが走っています。
陽二が書いていた文章の日付は「令和2年3月」です。
つまり、この映画は新型コロナウィルスによるパンデミックが深刻化するまさにその始期の世界を描いてもいるのです。

多くの登場人物がまだマスクをしていませんが、室内の換気に注意する程度には危機意識が高まっているようです。
陽二が入所している施設を最後に卓が訪ねるシーンでは、すでに「面会禁止」の措置が取られ始めています。
なんとか父親の「不在」を受け入れた卓ですが、皮肉にもこれから二度と陽二に直接会うことが叶わない未来が示唆されているようでもあります。
そして東京で舞台俳優としての稽古を再開した卓に待ち受けているのは、おそらくコロナによる公演中止といった悲劇的混乱なのでしょう。
パンデミックによってさまざまに発生した夥しい物理的な「不在」状況もまた「大いなる不在」だったのかもしれません。

北九州や熊本が主な舞台となっていますが、特にローカル性を強調している映画ではありません。
冬は終わったものの、まだ寒々しい曇天の空気感が支配する映像は、色調が抑えられていて、起きている悲劇を淡々と静かに、しかし一定の強度をもって映し出しています。

2020年3月、あの「プレ・コロナ」の世界を描いた映画としてもとても秀逸な作品だったと思います。

 

2020年3月 文京区江戸川公園付近の光景

 

 

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