ザジフィルムズの配給でマルコ・ベロッキオ(Marco Bellocchio 1939-)監督作品「夜の外側 イタリアを震撼させた55日間」(Esterno notte 2022)が各地のミニシアターで公開されています。
一昨年に公開された作品ですが、今年に入って上映された監督の最新作「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」を受けて、あらためて本作の日本劇場初公開が企画されたのかもしれません。
前編と後編に分割された上映スタイルがとられています。
それぞれ170分、全部合わせると6時間近くかかるという大長編。
一気に観るのはちょっときついかもと判断し、二日間に分けて全編を鑑賞しました。
「アルド・モーロ誘拐殺害事件」という題材自体が十分重々しく、映画の表情も全体的には極めて重厚なのですが、不思議とその語り口に軽妙なリズム感が意識されているところもあって、全く「長い」とは感じられませんでした。
非常に素晴らしい作品だと思います。
ベロッキオはすでに2003年、「夜よ、こんにちは」(Buongiorno, notte)を監督し、アルド・モーロ事件を映画化しています。
また、1995年にはドキュンメンタリー作品("Sogni infranti" )としてもこの事件を扱っていましたから、今回の「夜の外側」は彼にとって同一の事件を題材とした実に3回目の映像化制作ということになります(残念ながら前2作は未鑑賞です)。
映画の冒頭近く、モーロ邸に置かれたラジオから「フランチェスコ・ロージが『エボリ』を監督する」というニュースが聞こえてきます。
1978年という時代の空気をこの大傑作映画の名で端的に象徴しつつ、ベロッキオによるロージへの強いリスペクトが伝わるシーンです。
「夜の外側」は6つのパートから構成されていますが、単純に誘拐テロ事件の経過が6回に分割されて連続するわけではありません。
第1章と最後の第6章が中間の4章を挟み込むような独特の構造をしています。
キリスト教民主党(DC)党首アルド・モーロ(Aldo Moro 1916-1978)が「赤い旅団」(Le Brigate Rosse)に誘拐されるまでの動向を描いた第1章の後、第2章から第5章は時間軸が4つに並行して分割され、それぞれ違った立場の人物たちを主役としてストーリーが展開します。
つまり鑑賞者は視点を変えながら、モーロ誘拐後の数週間を計4回トレースすることになります。
そして第6章で再び時間軸が一本に統合されて進行し、映画は急速に「歴史」となって終わります。
従前ベロッキオが同じ事件を扱った「夜よ、こんにちは」は赤い旅団に監禁されていたモーロとテロリストの女性とのやり取りが主要な内容だったようです。
この「夜の外側」では逆に、監禁されているモーロの様子はほとんど描写されていません。
「監禁状態」を「夜」と解釈すれば、本作はその「外側」、つまりモーロ以外の、彼を取り巻いていた人物たちが誘拐から殺害までに至る間、どのような状態にあったのかを描いているということになるのでしょう。
この事件に並々ならない関心を抱いてきたマルコ・ベロッキオが「夜よ、こんにちは」では表現しきれなかったことをあらためて集大成として映像化した作品ということがいえそうです。
「夜の外側」ではモーロ事件の政治的な側面や悲劇性ももちろんテーマにはなっています。
しかしこの作品からむしろ感じられる最も強い主題は、救いようがないほど幾重にも連なった「皮肉の連環」ではないかと思います。
第2章は当時、内務大臣を務めていたフランチェスコ・コッシーガ(Francesco Cossiga 1928-2010)が事件に対処していくプロセスを中心に進行します。
ファウスト・ルッソ・アレジの見事な演技でこの政治家の複雑な内面が明らかにされていきます。
コッシーガはDC党首モーロが当時とろうとしていたイタリア共産党(PCI)との連携方針に対し、アメリカの存在を意識しつつ、強い危機感をもっていたようです。
誘拐事件が起きる直前まで、党首モーロは内相コッシーガにとって政治的には実に厄介な存在だったともいえます。
しかし、事件発生後、彼はモーロ救出に向け、他の政治家やロッジP2に属するといわれる将軍たちの顔色を窺いながらも強烈な執念で官憲組織を指揮していくことになるのです。
これが第一の皮肉です。
ローマ教皇パウロ6世(1897-1978)も、事件発生前は、共産党との共存を図ろうとするモーロの姿勢を疑問視していた人物として表現されています。
第3章は事件発生後、自らの身体を傷つけてまでモーロの生還を祈り、身代金を用意してバチカンを動かし救出交渉を図る彼の有り様が描かれます。
トニ・セルヴィッロの重厚な演技に惹き込まれました。
事件直前、モーロへの聖体拝受を一瞬ためらってしまった教皇は、そのモーロがキリストとなって「十字架の道行」を行なっているシーンを幻視することになります。
第二の皮肉です。
第4章は誘拐テロ事件の実行犯を含む赤い旅団のメンバーたちが主役です。
しかし、ここでも時間軸は第1章まで巻き戻され、彼らが監禁状態のモーロとやり取りする場面、すなわち「夜」そのものは描かれません。
女性メンバーであるアドリアーナ・ファランダ(ダニエーラ・マッラ)が次第に他メンバーたちのやり方に疑問を抱いていくプロセスは、赤い旅団が本来の革命精神を忘れ、単なる現実社会や権威への暴力的反抗組織に堕していった様子が示唆されているようです。
そしてファランダは危険を冒してまで監禁中のモーロが欲した聖書を入手し仲間に手渡します。
第三の皮肉です。
夫であり父でもあるモーロを突然奪われた家族たちの姿を描いたパートが第5章です。
誘拐される前、モーロ夫人、エレオノーラ(マルゲリータ・ブイ)は夫の存在に半ば嫌気がさしていたように描かれています。
モーロの誘拐は彼女が教会での告解で夫をなじっている最中に発生しているのですが、この後、彼女は夫の解放に向け閣僚や宗教勢力に激しい抗議を展開していくことになります。
第四の皮肉です。
第6章、殺害直前の場面において、モーロは監禁所を訪れた若い神父に告解します。
第1章において冷静に周囲との対話を進める穏健な良識派の政治家として描かれていたモーロはここに至って、神父を相手に仲間の政治家たちを呪詛するかのように強烈な「毒」を吐きかけることになります。
彼の救出のため精神的にも追い詰められるほど奔走しているコッシーガ内相について「双極性のうつ病患者だ」と断じるモーロ。
一方、あり得なかったはずの彼の生還を、一時、幻視までしてしまうコッシーガがみせる狂気と喜悦が混じり込んだ表情。
第五の皮肉です。
そして最後にベロッキオは、テロリストたちの逮捕や、モーロ殺害からわずか3ヶ月後の教皇パウロ6世の死、1985年のフランチェスコ・コッシーガが大統領に就任する場面等を「歴史」として当時のニュース映像によって引用。
大いなる「皮肉の連環」が閉じられて「夜の外側」は終わります。
ちょっと意外だったのは、後に事件の黒幕とも噂された首相ジュリオ・アンドレオッティ(Giulio Andreotti 1916-2013)がそれほど重要な役回りとして登場していないことでしょうか。
まるで顔自体が歩いているようなファブリツィオ・コントリによる存在感抜群の演技は面白かったのですが、特にモーロを陥れるような気配をもってこの作品では描かれていません。
映画の中のアンドレオッティはモーロ誘拐の報を聞いた直後、執務室内に戻って嘔吐しています。
この嘔吐は「自分も同じ目にあうかもしれない」という恐怖からなのか、それとも純粋にモーロの立場を心配してのものだったのか。
不気味に曖昧な、ねっとりとした空気が常に「夜の外側」のアンドレオッティにはまとわりついているようでもあります。
もともとはテレビ用の企画だったそうですけれど、陰影深いカメラワークや質感を大切にした美術など細部にわたって十分すぎるほどスクリーン向けの映画として成立している作品です。
緩急自在のシナリオによって長大な物語にもかかわらず弛緩することがありません。
モーロを演じるファブリツィオ・ジフーニをはじめとする主要登場人物役はもとより、脇役陣にも全く穴がなく、とても完成度の高い映画だと思いました。